写真のように帯がかかっていると、易しそうな感じがしますが中身は400ページを超えるボリュームです。この手の本が売れない時代に初版で7万部が売れて、先日は「新書大賞」を受賞したそうです。私は何度か書店で手に取りましたが、買うのをためらっていました。まだ読んでいない本が、何冊もたまっているからです。それでも買ったのは、「業界の人間として無視するわけにもいかないだろうな」という思いです。この本を読んでから相談室に来てくれる人も、いることでしょう。そしてカウンセリングについて話をする時の、素材になってくれるかもしれません。
カウンセリングとは何か、あるいは心理療法とは何か、それはこの仕事に携わっているものなら、ずっと追及し続けるものです。しかしクライエントは一人ずつ違いますし、同じことは二度と起こりません。私も10年、20年、30年……と40年も経ってしまいましたが、分かったと思ったらまた分からなくなります。その分かり方も、年数を経るごとに違っていきます。だから真正面から「カウンセリングとは何か」と題する本は、たとえ頼まれても書けないと思います。
私も「カウンセリングとは何か」をクライエントと二人で話すとか、授業で学生とディスカッションするとかだったら、何のためらいもなく話せることでしょう。でも一般書で「カウンセリングとは何か」と題してしまうと、業界は一家言をもった人たちばかりなので、何を言われるか分かったものではないです。「カウンセリングへの招待」ではなく、「カウンセリングとは何か」と題した東畑さんの勇気は讃えられて良いと思います。
いまや「カウンセリング」の概念は、無限大に広がっています。5分間の問診も、セールストークも、「カウンセリング」と呼ばれることもあります。そして心理療法もさまざまな学派があり、それぞれの優劣を競った時代もあり、いまは「統合派」や「折衷派」が大多数を占めているように見えます。認知行動療法も拡散していって、「第三世代」になってマインドフルネスまで取り入れるようになりました。心理療法をしている人だったら、もうだれでも「認知行動療法」を名乗れる気さえしてきます。
「こういう人には、〇〇療法が向いている」とか、「〇〇療法の特徴は……だ」とか、そんなマニアックな話は人々にとってはどうでも良いことです。自治体や企業でも、カウンセラーを入れるところが増えてきました。自分の子どもがスクールカウンセラーのいる学校に通っていたり、もしかしたら自分もカウンセリングのお世話になるかもしれないと思ったりする、そんな立場の人たちにとっては「一体何をしてくれるの?」ということになるのです。そんな社会的なニーズに応えているから、これだけの反応が起きているいるのではないかと思うわけです。
わたしたちは、クライエント個人に対しては、介入についての説明責任を負っています。だから「どうしてあの時、あんなことを言ったのか」については、答えるだけのものを持っているはずです。しかしカウンセリングという営み全体についての、説明責任はありません。むしろその責任を果たすのは、カウンセラーの養成をうたって学生を集めている大学であったり、あるいは資格認定協会や職能団体などの「公」の領域でしょう。
もちろん「カウンセリングとは何か」は「公」の領域の人たちも、説明はしているはずです。しかし通り一遍の定義だけでは、ユーザーの心には届きません。定義には「謎」が含まれていないからです。東畑さんは個人的な「謎解き」としており、業界を代表して説明責任を果たしているつもりなどないと思います。でも、まだ40代の東畑さんの「謎解き」の本が、これだけの反響を呼んでいることを、いま「公」の領域にいる人たちは認識する必要があるでしょう。その上で「カウンセリングとは何か」を、社会全体にアピールしていくことで、「公」の存在価値も高まっていくと思います。
わたしたち60代、70代の業界人が、東畑さんを「若いのに生意気だ」的な目で見てしまうとしたら、それはちょっと残念かなと思います。「若いのに生意気でない人」よりは、「若いのに生意気な人」の方がよほど頼もしく感じます。これは一般書ですが、業界の人たちこそ読むべきかもしれません。「これは、ちょっと違うんじゃないの?」という突っ込みどころは、それぞれ湧いてくると思います。しかし語られなかった空白に投げ込まれたものは、丁寧に扱っていった方が良いと思うのです。
