2018年12月28日

セラピストでいること

毎年のことですが、臨床心理学を志す大学院生の実習を引き受けています。実習と言ってもこちらが出向く形で、面接のデモンストレーションをしたり、お話ををしたりです。「開業心理臨床」の立場でお話をするので、相談室を作ったいきさつから始まって、どのようにクライエントに会っているのかなど、限りある時間の中で臨床の現場を想像できるように話しています。パワーポイントは視覚の刺激にとどまってしまうというか、言葉の力が減る感じがするので、使いません(←面倒くさいだけ?)。学生も少ないので、講義と言うよりは対談のようになります。

その中でトシヨリの話なんかしてもなあ……とも思いつつ、自分がどのようにしてこの道に入ったか、そして歩んで来たかも伝えるようにしています。ちょっと個人的なことに立ち入り過ぎるきらいもあるのですが、セラピストになるということは、生き方を選ぶことになるので、その参考になればと思っています。もちろん臨床心理学を学んでもセラピストにならない人もいるでしょうし、それはそれで良いのです。

今年もあとわずかで、終わりです。年末になると、どんな一年だったかを思い起こします。今年は発達障害のある方の、家族の方からの相談が増えたように思います。でも大人のうつやパニック障害、青年期の方の自立にかかわる問題などは相変わらず多いです。精神科医は精神医学の診断に基づいて、薬物療法で症状をコントロールしてくれます。かたや心理療法のセラピストとして、どうアプローチするのか? 自己の存在感や効力感、あるいは「生きる意味」を感じにくくなった人に、主体的な生き方ができるようにお手伝いしていくのが、私たちの仕事なのかもしれません。

セラピストは、一人ではセラピストにはなれません。クライエントが来てくださって、面接室があって、連携をもってくださる方々がいて、心理療法をすることができます。今年も大勢の方々から、お世話になりました。ありがとうございました。なお明年は1月5日(土)から開室いたします。1月19日(土)はお休みをいただいて、20日(日)は開室いたします。

2018年12月25日

ニーゼと光のアトリエ

ブラジルの精神科病院で絵や彫刻による心理療法を行った精神科医、ニーゼ・ダ・シルヴェイラの実話をもとにした映画です。ロボトミー(前頭葉の白質を切除する手術)の紹介フィルムを病院の医師たちが見るシーンがあり、そこで「発明者のモニスがノーベル賞をもらった」とあったので、1950年代なのでしょうか。ニーゼはアイスピックを脳に差し込むロボトミーや、死んじゃうんじゃないかと思うまで痙攣させる電気ショックに衝撃を受けて、作業療法部門の仕事を選びました。ちなみにC.G.ユングも、著作や手紙を通しての師匠として登場します。昭和38年と言えば1964年ですが、三枚橋病院を創立して精神医療の自由・開放化を進めた石川信義氏はこのように書かれているそうです。

昭和三八年、精神科医になってはじめて、私は精神病院というところを見た。鉄格子の向うには、これまで想像したことのない世界が広がっていた。「これはひどい」。心の底からそう思った。あまりのことに心が凍りついて、私は声も立てられなかった。この日に受けた衝撃を私は生涯わすれまい。

私は1980年代になってから関東の精神科病院で実習させてもらいましたが、まさにこんな感想を抱きました。老朽化した閉鎖病棟には畳の病室がならんでいて、鼻が曲がるんじゃないかと思うくらいに臭かったです。「保護室」は鉄格子の独房で、問題を起こした患者さんを懲罰的に入れることもありました。入院患者のほとんどは統合失調症で、発病しても適切な治療につながるまで年月がかかったり、治療を中断して再発を繰り返したりして、「人格の荒廃」と精神医学のテキストに書かれている通りのような患者さんも大勢いました。男性の看護助手が「先生」と呼ばれて、怖がられていました。病院側にしてみれば、暴れる患者さんもいたので、用心棒的な人も必要だということだったのでしょう。

たまたま私が就職した病院には、独房のような保護室はありませんでした。長く入院していた患者さんたちを共同住居に退院させる、社会復帰運動も活発にしていました。でも入院患者への処遇は、上等なものではありませんでした。日本の精神医学の開拓者だった呉秀三は1918年に「わが邦十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸の他に、この邦に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」と書き、日本医師会長の武見太郎が1960年に「精神病院は牧畜業だ」と言い放った現実が脈々と続いているような、そんな感じでした。

でも勤めが長くなるにしたがって、あんまり「悲惨」とは感じなくなっていました。「慣れというものは恐ろしい」だけではありません。これは精神医療に従事している者たちだけの問題ではなく、もっと構造的と言うか、国全体のあり方の問題でもあると感じるようになりました。まず国が決めている入院費が恐ろしく安くて、これでどんな治療をしろと言うんだという感じでした。


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さて映画に登場していた患者さんたちは、ホンモノじゃないかと思うくらい、よく演じられていたと思います。最後に登場したニーゼ本人の、「患者さんたちに、より良い人生を送らせてあげようと思っただけ」という言葉には心打たれるものがありました。
posted by nori at 21:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画に見るこころ

2018年11月18日

エミリー・レムラー

チャーリー・クリスチャンがそうだったように、ウェス・モンゴメリーは多くのギタリストに影響を与えました。中でもエミリー・レムラー(Emily Remler 1957〜1990)はウェスの影響を受けつつも、自己のスタイルを発展させていた人で、夭折が惜しまれます。80年代にGibson ES-335を愛用していたので、フュージョン系のギタリストかと思いきや、歌心のあるビバップも聴かせてくれます。おまけに、美人です。

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レムラーはニューヨークに生まれ、10歳からギターを弾き始めました。初めはロックを弾いていたものの、バークリー音楽院でジャズに出会って、ジャズギタリストとして順調にキャリアを積んでいました。1981年から85年までジャマイカ出身のピアニスト、モンティ・アレキサンダーと結婚していました。オーストラリアのツァー中に心臓発作で亡くなっていますが、ヘロイン中毒が影響しているとされています。あ〜あ、何でそんなものに手をだしちゃうのかな。

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このアルバムは30歳の吹き込みで、70歳だった大御所のピアニスト、ハンク・ジョーンズがバックを務めています。バスター・ウィリアムズ(b) 46歳、マービン・スミッティ・スミス(ds) 27歳と、年代がバラバラのオトコ連中を従えてのびのびとプレイを楽しんでいて、堂々たる貫禄です(East To Wes / Emily Remler, Concord Jazz 1988)。

2018年10月10日

八幡平の草紅葉

岩手県ので紅葉狩りの名所と言えば、栗駒山と八幡平でしょうか。八幡平はアスピーデと呼ばれるなだらかな火山で、深田久弥が定めた百名山にも選ばれています。道路が山頂近くまで通っていて、山頂駐車場からスニーカーで往復できます。高層湿原が枯れて草紅葉になり、沼とのコントラストも見事です。
山頂からの眺望が残念なのはないものねだりとしても、残念なのはあまりに近くまで道路が切り開かれているので、「てくてく歩いてたどり着いた」という有難味がないことでしょうか。自然破壊は言うに及ばずで、こんな道なければ良いのに……とも思います。でもこの道があるおかげで雄大な自然に触れる人も大勢いることは確かで、わが家も子どもたちが小さいときには何度か連れ出したものです。夏の高山植物も、素敵です。


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posted by nori at 20:03| Comment(0) | TrackBack(0) | メンタルヘルス

2018年09月26日

チャーリーとの別れ

チャーリー(11歳)は5月に糖尿病の症状が始まり、腫瘍もあるかもしれないと言われました。家でインスリンの注射を打っていたのですが、夏には脱水症状が出て、病院通いが続きました。膵炎とかケトアシドーシスとか、ヒトは病名をつけて治療しようとするのですが、本人はニャンのことやら分かりません。動物病院のスタッフさんたちには可愛がられましたが、臆病な性格なので、家じゃないところに居るのはストレスだったようです。何度も針を刺すと硬くなるし、ただでさえ猫の血管は細いので、点滴も難儀になりました。

治療しても苦痛を長引かせるだけと感じる半面、健気な姿を見ると生かしてやりたいとも思います。「もう治療はやめて、家で看取ろう」ということになり、9月20日の早朝に家族で見送ることができました。獣医さんが飼い主の悩みに寄り添って、私たちの選択をサポートしてくださったのが有難かったです。助かる可能性に賭けて積極的な治療をするように勧められて、入院中に亡くなってしまったというような話も聞きますし、そうなったら悔やんでいたことでしょう。

手話で2000語を用いたゴリラのココは、「死ぬこと」を「眠るのと同じ。気持ちのよい穴に、さよなら」と表現したそうです。動物は人間よりも簡単に、そして正確に死をとらえているのかもしれません。黒猫のエリックはチャーリーの耳を噛んでちょっかいをかけていましたが、弱ってからは一切なくなりました。階段の途中で足が止まると、エリックが駆け上がって尻尾をなめて、チャーリーがすっと登りました。彼らには食べ物を狙うとかヒーターで暖まるとか、共通の目的があるとき以外は3mは離れるというオキテがあったようです。でもチャーリーが亡くなった夜は、エリックは近くにあった布団に乗って、ずっと段ボールのお棺を上からながめていました。食欲は相変わらずモリモリだけど、さびしそうにしているエリックを見ると、チャーリーの死を理解しているように感じます。

チャーリーはケイレンを起こして死にかけてからも、復活しました。家族みんなでお別れができる日まで、頑張ってくれました。夜は妻のベッドで寝ていたので、弱ってからは階段で転ばないように妻は1階の和室で寝ていました。最後の夜は妻の布団で待っていたそうですし、明け方には階段を登ろうとして転びました。朝は起こしに来るのが日課だったし、私にあいさつに来てくれたのかもしれません。息を引きとるときには、目にいっぱいの涙をためていました。こっちの思い込みかもしれないけど、情が通じると言うか、チャーリーは人のような猫でした。かっぱわれた塩鮭を奪い返して、思わず自分でくわえたりなんかして、追いかけっこもさんざんして楽しい日々でした。心からのありがとうを、捧げます。
posted by nori at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | にゃんころじい

2018年08月19日

ゴルゴ13 盛岡展

「岩手銀行赤レンガ館」は1911年に完成した、旧盛岡銀行本店です。国の重要文化財に指定されており、初めて盛岡を訪れる人にとっては定番の見学地でもあります。

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9月9日まで、この由緒正しい建物で「さいとう・たかを ゴルゴ13 盛岡展」が開催されています。さいとう・たかを氏の家は、私が住んでいる石鳥谷町にあります。噂では他にも住まいがいくつもあるそうですが、たしか奥様が岩手出身の方らしいです。もっとも超多忙の日々でしょうから、岩手でゆっくり過ごす時間はあまりないのではないかと思います。

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ありがちな展示ホールではなくて、レンガ造りの銀行での展示はゴルゴ13らしくて面白いと思い、訪れてみました。平日なのに大勢の人が見に来ていて、ちょっとびっくりしました。「こんな人が、ヒトゴロシの劇画を見てるのかな?」と思ってしまうような(ステレオタイプですね)、上品そうな老婦人もいらっしゃいました。もっとも「上品な老婦人」がヒトゴロシの依頼者になる話はいくつもあるので、油断がなりません。M-16のレプリカでターゲットを狙う体験ができたのが、いちばん面白かったかな。残念ながら、原画を見て大興奮するほどのコアなファンではないのでした。

 
posted by nori at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 岩手の絵日記