2016年01月05日

セッション

ジャズの大学(モデルはバークリー?)のドラマーが主人公で、鬼のような教授との血みどろの確執が描かれていました。サド・マゾヒスティックな関係性はある意味、安定しています。「言うことを聞かせる」−「言うことを聞く」だったり、「いじめる」−「いじめられる」だったりと、固定しています。そのため学校でも、会社でも、家庭でもと、あちこちでサド・マゾヒスティックな関係性が重宝されるのかもしれません。対等な関係性の方が双方の成長を育むと思いますが、こちらは簡単ではありません。

主人公はそのサド・マゾヒスティックな関係性の中で、ドラマーとしての力をつけて立場を手に入れます。自己愛むきだしで傲慢にふるまったり、ガールフレンドを出世の邪魔とばかりに切り捨てていました。でも破綻して打ちひしがれたこと、父親がその痛みを分かち合ってくれたことが、彼の目を覚ましたように思いました。主人公は大学を退学になりましたが、「もうこんな生徒を出さないために」と教授の悪行を証言しました。その教授が退屈なピアノ弾き?になっているのをライブハウスの看板で見つけて、ふらっと入ってしまったのは罪責感からでしょうか。仕返しを企む教授よりは、はるかに大人になっています。

映画として面白く観ることができたのは、ひとえにJ.K.シモンズの怪演によるものです。この映画の監督は高校時代にジャズバンドのドラマーだったそうですが、そりゃホンマカイナと思うような噴飯ものの場面が満載でした。なぜゆえ譜めくり(それもドラムだけ)がつくの?とか、まあいっぱいあって書ききれないので列挙はやめておきますが、その中で一番の間違いはチャーリー・パーカーのエピソードに関することでしょうか。

ジョー・ジョーンズがシンバルのネジをゆるめて落とした(投げたのではない)のは、パーカーが下手くそ(バンドマン用語では「イモ」)だったからではありません。調子こいて(もしかしておクスリ?)迷子になって2小節先を吹きまくり、客が騒いでもジョー・ジョーンズがシンバルのカップを叩いても気がつかなかったのだそうです。その場には楽しげな笑いがあっただけで、鬼の形相のドラマーがいたわけではないでしょう。もっともサド教授が勝手に話を作り変えていた、という設定だったかもしれませんが。

いちファンとしては、ジャズがこんな世界だと思われるのは嫌だし、できたらスポーツとかを舞台に映画を作ってもらいたかったです。
posted by nori at 21:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画に見るこころ