
うちは今年度の前半に、町内会の班長になりました。半期ずつの交代で、4月からの班長は町内会費の集金をすることになっています。いちいち集めて回るのが面倒なので、交通安全協会費や体育協会費など、本来は任意の協力金も半ば強制的に支払う仕組みになっています。老人ばかりで体育なんかする人がいないような町内なのに、体育協会って何なんだろうとかは思いますが、これはまだ良い方かもしれません。
「緑の募金」の緑の羽、それから「共同募金」の赤い羽根、これらニワトリの羽もお配りしなくてはいけないのだけれど、たいがいは「要りません」と言われます。それはそうだ、街中にこんなニワトリの羽をつけて歩いている人なんか、いないのです。「私は募金しています」なんてことを、ニワトリの羽で示す必要なんかないのだし、そんなことをする人はダサいと思われます。
同調圧力を利用して募金を集める、そして「羽」を免罪符として与えることでその効果を高める、こうした古めかしい手法に頼っているのは昭和の人間なんだろうと思います。いまやSNSとクラウドファンディングが当たり前なのに、いちど利権構造ができあがると、どんなにくだらないことでも続けられてしまうのが日本のあり様かもしれません。
だれも欲しがらない、ニワトリの羽。そのために命を落とすニワトリがいるとしたら、動物虐待でしょう。死んだニワトリから羽をむしっているとしたら、そんな作業を人にさせて良いのでしょうか? 「ニワトリの羽を作って生計を立てている人もいる」という話もあるかもしれないけど、もっと生きがいを感じられるような仕事をしてもらった方が良いのではないでしょうか。そして100円募金したとしても、ニワトリの羽のためにいくらかかっているのでしょうか? かりに30円だとしたら、ニワトリの羽ではなくて緑化のために使う方が募金者の意図にかなうのではないでしょうか。
そんなことを考えさせられました。