チャーリー(11歳)は5月に糖尿病の症状が始まり、腫瘍もあるかもしれないと言われました。家でインスリンの注射を打っていたのですが、夏には脱水症状が出て、病院通いが続きました。膵炎とかケトアシドーシスとか、ヒトは病名をつけて治療しようとするのですが、本人はニャンのことやら分かりません。動物病院のスタッフさんたちには可愛がられましたが、臆病な性格なので、家じゃないところに居るのはストレスだったようです。何度も針を刺すと硬くなるし、ただでさえ猫の血管は細いので、点滴も難儀になりました。
治療しても苦痛を長引かせるだけと感じる半面、健気な姿を見ると生かしてやりたいとも思います。「もう治療はやめて、家で看取ろう」ということになり、9月20日の早朝に家族で見送ることができました。獣医さんが飼い主の悩みに寄り添って、私たちの選択をサポートしてくださったのが有難かったです。助かる可能性に賭けて積極的な治療をするように勧められて、入院中に亡くなってしまったというような話も聞きますし、そうなったら悔やんでいたことでしょう。
手話で2000語を用いたゴリラのココは、「死ぬこと」を「眠るのと同じ。気持ちのよい穴に、さよなら」と表現したそうです。動物は人間よりも簡単に、そして正確に死をとらえているのかもしれません。黒猫のエリックはチャーリーの耳を噛んでちょっかいをかけていましたが、弱ってからは一切なくなりました。階段の途中で足が止まると、エリックが駆け上がって尻尾をなめて、チャーリーがすっと登りました。彼らには食べ物を狙うとかヒーターで暖まるとか、共通の目的があるとき以外は3mは離れるというオキテがあったようです。でもチャーリーが亡くなった夜は、エリックは近くにあった布団に乗って、ずっと段ボールのお棺を上からながめていました。食欲は相変わらずモリモリだけど、さびしそうにしているエリックを見ると、チャーリーの死を理解しているように感じます。
チャーリーはケイレンを起こして死にかけてからも、復活しました。家族みんなでお別れができる日まで、頑張ってくれました。夜は妻のベッドで寝ていたので、弱ってからは階段で転ばないように妻は1階の和室で寝ていました。最後の夜は妻の布団で待っていたそうですし、明け方には階段を登ろうとして転びました。朝は起こしに来るのが日課だったし、私にあいさつに来てくれたのかもしれません。息を引きとるときには、目にいっぱいの涙をためていました。こっちの思い込みかもしれないけど、情が通じると言うか、チャーリーは人のような猫でした。かっぱわれた塩鮭を奪い返して、思わず自分でくわえたりなんかして、追いかけっこもさんざんして楽しい日々でした。心からのありがとうを、捧げます。
2018年09月26日
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