2020年10月12日

ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩(Ballad)

もう20年以上も前の話ですが、新潟から岩手に引っ越すときにジャズの仲間から言われました。「ベイシーには行くなよ。お前みたいなヤツが行くと、ケンカになるから」。「お前みたいなヤツ」とはどんなヤツのことを言うのか? それはさておいて。もちろん岩手に住んでから、ほどなくしてベイシーには行ってみました。でもマスターと話をするわけでもなく(話をするのが難しい大音響です)、黙ってレコードを聴いて、黙ってお金を払って帰るだけです。マスターも黙ってお金を受け取るだけで、何回行っても、その繰り返しでした。だから最近になって「ありがとうございました」などと言われると、「この人死ぬんじゃなかろうか」などと思ってしまうのです。

でも、マスターはこっちのことをジッと見ているような気がします。一枚ごとに、どんな反応を示すのか。そして「今度は、これでどうだ!」みたいに、盤を選んでいる。そしてお金を払うときに、「イイのを聴かせてもらいました」とか「良く鳴ってますね」という顔をしているかどうか。観光地みたいになってしまって、こんな無言の会話をしないまま帰る客には、たぶんマスターはがっかりしていると思います。ジャズ喫茶仲間には、「スマホで写真を撮るだけの客なんか、うんざりする」とこぼしていたようですから。

マスターは映画の中で、「ジャズというジャンルがあるんじゃなくて、ジャズの人がいるんだ」と言っていました。それはそうだとは思うのですが、でもジャズという音楽を愛する者どうしのつながりもあると思うのです。世間的な地位やその他の分け隔てなく、ジャズを前にしたらみんなひとしくバカになるというか、そんな、ある種のコミュニティと言ったら良いのでしょうか。

basie.jpg

私はジャズもオーディオも珈琲も好きで、若い頃はご多聞にもれず、ジャズ喫茶のマスターに憧れていました。でも実際にやることを考えると、いくら好きな音楽でもずっと聴いてはいられないと思ってしまいます。オーディオ装置の調整に余念なく、そして飲み物を客に出しながら、レコードを一枚一枚、演奏する。開店から閉店までの間ずっと、大音量で。それを連日、何十年も。生半可なことではできません。私なんぞには到底できないことで、本当に凄いことだと思ってしまうのです。感動するのは、菅原正二(マスター)という存在に対してですね。
posted by nori at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画に見るこころ
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