中学校の廊下に、生徒会役員の選挙公報が掲示されていました。当たり前になって、だれも疑問に思わない?「生徒会」なのですが、あれに何の意味があるのか、私は疑問です。「立候補」する子は、たいがいは先生から勧められたりしています。教員から見て「ちょっと、あの子はね……」なんて子が思いがけず立候補すると、「ふさわしい子」が擁立されたりします。いまは元気のある子が少ないので、信任投票だったりします。
そもそも、「生徒会」には何の権限も予算もありません。要は先生方の下請けで、やらされることは決まっている。それも「できる子」が、水面下で選ばれてしまっている。そこはもう暗黙の了解で、選挙なるものが行われている。「民主主義の仕組みを体験させる」という大義名分はあるのかもしれませんが、そこが問題だと思うのです。政治家の二世、三世、あるいは秘書、目をかけられた役人……そういう人たちが立候補して、「あれもやります、これもやります」とみんな同じようなことを公約にして、投票者は「できる人に任せておけば安心」みたいな、そんな大人社会の選挙の予行演習になっているのではないか、とさえ感じます。
生徒総会もすっかり管理されていて、質問もあらかじめチェックされています。執行部がひとこと回答すれば、「分かりました、頑張ってください」でお終いで、その場の議論というものがない。いまの国会や地方自治体の議会にしても、用意された原稿や役人の答弁だらけで議論がないのと同じです。政治への無関心、盲従、反発、無力感、そういったものは育っていくでしょうが、自らコミットしようとする姿勢は「生徒会」からは生まれて行かないと思います。
私が中学1年生のとき、生徒会長はかなり型破りな人物でした。「靴を履かなくてはいけないという校則はない」から、裸足で校内を歩き回る。運動は抜群にできるくせに、文化部に日の目が当たらないのは不公平だからと、美術部か何かに入って「文化大革命」を訴える(いまでは悪名高い毛沢東の暴虐な権力闘争ですが、何しろ中1ですから何だソレは……という感じでした)。「彼を生徒会長にしたら、どうなるんだろう?」と考えるチャンスは、上級生にはあったはずです。まあ彼も傑作だったけど、生徒会長にして泳がせていた先生方も偉かったと思います。
選挙で役員を選んで生徒会を運営させるなら、彼らに権限や予算を与えるべきでしょう。生徒たち自らが学校を良くしていくために関わる仕組みを作りたいのなら、「この指とまれ」のボランティア方式にすれば良いと思います。子どもたちが自分で居場所を見つけて、活動に誇りを持てるようになれば、成長の糧にもなっていくのではないでしょうか。
2021年09月17日
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