私の年代になると、引退している人もいます。病気で働けなくなったとか、親の介護に追われるようになったとか、働けない事情があるわけではないけれど、ほぼ毎日家にいる暮らしです。定年が延長された65歳や、70歳まで働かなくても、お金の見通しがついているのでしょう。経済的に恵まれているのはうらやましくもあるけど、さりとて自分がそうなりたいかと言われれば考え込んでしまいます。SNSをのぞいてみれば、サンデー毎日(←古い!)で時間と元気を持て余している人たちが、どこそこに遊びに行ったとか、何とかというお店の何を食べたとかで盛り上がったりしているわけで、「楽隠居ではボケちゃうよ」なんて、およそ心理屋らしくもない独り言が出てきます。
私が若いころは、転職などと言うことは簡単に考えるものではありませんでした。就職したら「マジメに働いて結婚して定年を迎える」のが、自動的に浮かんでくる人生設計です。定年もたしかまだ50歳台で、60歳にも達していませんでした。いまや70歳まで延びるかどうか、というところです。だから同年代の人たちは、マラソンを走り出したらゴールが2k先に延ばされ、後半に3km先に延ばされ、ゴールしたら「もう3km走っても良いよ」と言われるようなものかもしれません。
いま「FIRE」(Financial Independence, Retire Early)、つまり「経済的に自立して早めに引退する」という言葉をネットで目にします。つい昔の「DINKS」(Double Income, No Kids)「共働きで子どもなし」を思い出してしまうのですが、アメリカの世相を反映しているのでしょうね。経済的に活況で金利も高いいまのアメリカで流行っている言葉を、そのまま持ち込むのは軽薄だとは思いますが、日本でも「悠々自適」に憧れる人がそれだけ多いということでしょう。
ただし、単に「働くのがイヤだから」で引退を目指してしまうと、「金を貯めなくていけない」になります。「もっと働こう」とか「支出を抑えよう」になって、要するに「ガマンを止めるために、もっとガマンをする」ということになってしまいます。そうなってしまうと、もうまるで素敵ではありません。
ちょっと前の放送でしたが、九大の教授を退官されてから大分県の飯田高原で訪問診療を続けている、野瀬善明医師のドキュメンタリーをNHKで観ました。「黄昏高原診療所」というタイトルだったと思います。村人たちと一緒に年を取っていくのは、究極の臨床だと感じ入りました。もっと印象的だったのは「こういうところで自然を相手に暮らしていると、自分も自然の一部になっていって、死ぬのが怖くなくなる。だからここの人たちは、みんな元気ではつらつとしている」という野瀬先生の言葉でした。老年期の発達課題は、「死を自然なものとして受け容れる」ということかもしれませんが、期せずしてそうなっているわけです。田舎にいる、というだけで。
若くて元気なのに引退を望むのは、もしかしたら都会のビョーキかもしれないな、と思ったりします。「お金を貯めてから引退しよう」とガマンせずに、田舎に移住してしまった方が良いのかもしれません。もっとも田舎は田舎でガマンすることがあるのですが、インターネットなどのおかげで田舎特有のものはずいぶん減っているように思います。それに少子高齢化と過疎のおかげで、東京モンもガイジンもみんなウェルカムになりました。「引退したくなったら、田舎においでよ」、でしょうか。
2022年08月26日
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