虐待された子どもは、大人になってからも生きていくのに苦労することがあります。ご本人の苦しみの深さや、心の傷を修復して新しい生き方を身につけていく大変さ、あるいは回復に至るまでの社会的コストを考えると、やはり行政は虐待の防止に力を入れていくべきでしょう。
ピュアリーさんが虐待/犯罪被害の心理療法で、虐待や犯罪など外傷性の精神障害の心理療法について述べておられます。クライエントの自責感、治療関係での再演、二次受傷の問題などは、やはり避けては通れないことだと思います。外国人については判断する材料がありませんが、治療に伴う困難については、おっしゃる通りだと思いました。記事には
不思議なことに、彼女らはしばしば「私が悪かったから」「非は私にある」と自罰的になることが多い。強烈な罪悪感を抱いているようである。心理療法の中で彼女ら強い罪悪感に関わっていると、治療者はそれに反応するように強い無力感に駆られる。
とありました。
虐待を受けた人が自罰的になるのは、ひとつには虐待者から「お前が悪いから叩くんだ」と刷り込まれるからでしょう。幼いうちに刷り込まれてしまうと、ぬぐおうとしてもぬぐいきれない強迫観念のようにしみついていきます。もうひとつは、子どもの方で「自分が悪いから叩かれるんだ」とストーリーを作っていくことです。「何も悪いことをしていないのに、親に叩かれる」よりは、「自分が悪いから、親に叩かれる」方が、耐えやすいのです。
「自分が悪い」と同じく、「自分には何もできない」(無力感)も、一部は現実(親には太刀打ちできない)であり、一部は子どもによって作られたストーリーかもしれません。自分を無力な存在にしておけば、親を破壊する空想や衝動から身を守ることができるのではないでしょうか。そしてその無力感は、いずれ治療者に伝わっていきます。
「自己治療のスーパービジョン」とは神田橋條治先生の受け売り(それも外傷性の障害について述べていたことかどうかも、失念してしまいました)ですが、まずそんな感じで距離を取ることが要点かな、と自分では考えています。何よりも治療者が無力感に耐えて、救済者幻想を持たないこと、つまりは害にならない治療者であることです。言うは易く行うは難し、ではありますが。
2009年08月03日
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虐待/犯罪被害の臨床
Excerpt: 過去に虐待/犯罪被害の既往を持つ成人女性の心理療法について。
Weblog: 発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版
Tracked: 2009-08-03 10:33
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虐待/犯罪被害の臨床
Excerpt: 過去に虐待/犯罪被害の既往を持つ成人女性の心理療法について。
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Tracked: 2009-08-03 10:33
>つまりは害にならない治療者であることです
これが出来たら理想的なんですけど、なかなか難しいですね。で、思うのは、害にならないことなんて原理的にできるのか?ってことも考えたりします。心理療法を行うこと自体が既に侵襲的なものであるからです。そして、それをどのように体験するのかは人によりますが、被虐待者はそこに被暴力的な対象関係を持ち込んでくるようです。
だから、僕は今のところ、害にならない関係を作るのではなく、虐待的な関係に陥っていることそのものを転移の中で取り扱うことが治療者に出来るささやかな援助かなって思っています。
ただしこうしたことは、転移解釈こそが治療の中核をなすとの考えで治療を進める精神分析のセッティングの中で起こりやすいことです。起こさなければ治療にならないので、わざわざ起こしている、とも言えます。
ピュアリーさんがおっしゃることは、精神分析の立場からすれば、まことに穏当なものだと思いますし、かつては私もおっしゃるような治療を目指していました。でも年数を経るにつれて「ここまで大がかりなことは必要ないのではないか?」と考えるようになりました。今のところは「なるべく害にならない」、ちょっと腰の引けたスタンスで、教育的・支持的なアプローチを心がけています。
>転移解釈こそが治療の中核をなすとの考えで治療を進める精神分析のセッティングの中で起こりやすいことです。起こさなければ治療にならないので、わざわざ起こしている、とも言えます。
まだこの辺りについては僕も体験が深まってないし、理論的に整理がついているわけではありませんが、精神分析だから起こるのか?精神分析ではなかったら起こらないのか?また精神分析ではわざと起こしているのか?というのは正直分かりません。
ただ、何となくなので根拠が何かあるとかそういうのではありませんが、精神分析ではhere and nowで起こっているものをそのまま受け取るということが原則かなって思っています。セッティングの中で虐待的な関係が生起すれば扱うし、生起しなければ扱わないという感じで。
古典的な精神分析のように、わざとストレスを与えて、そこから出てくるものを分析するようなフロイトのやり方は最近は見たことが無いので。
で、僕も虐待の既往がある方に、いつもこのようなやり方をしているわけではありません。その人が望めば分析をするし、望まなければ分析はしません。これは通常の臨床と同じようにクライエントのニーズに合わせるということをしています。
そして、分析をしない場合、虐待的な関係が転移の中で生起しても(転移は関係性なので、分析ではなくても心理療法であれば当然出現するので)、それを敢えて見ない振りをする、分かっていても敢えて扱わないようにするというやり方でサポーティブな心理療法を行っています。
率直に思ったところはこんなところです。それでは失礼いたします。