「ああ、嫌な世の中だ。生きているのも、やんなった」などと言うのは、年寄りと相場が決まっていました。もっとも落語や芝居の中でそんなセリフを発する人物は、それなりに余生を楽しんでいたと思われるのですが。精神医学では「生きているのが嫌だ」とか「さっさとおさらばしたい」という気持を厭世感と呼んでおり、うつ状態になると強まるとされています。
震災の前から日本人の自殺は年間3万人以上を数えて、大きな社会問題になっていました。また「若者の間に厭世感が蔓延している」と、びっくりする外国の研究者もいたようです。私の感覚では若者だけではなく、働き盛りの中高年にも蔓延しているように感じます。70代、80代の高齢者の方が、むしろ明るい感じさえ受けます。長いこと風雪を耐えてきた人たちは、違うのでしょうか。
政治や経済などの世相が暗いことが、厭世感の蔓延の土壌になっているのでしょうか。そうかもしれないし、それだけではないような気もします。たとえば、いま破産寸前になって緊縮財政が敷かれようとしているギリシャの人たちはどうでしょうか。デモに参加したり略奪や破壊行為に走っている人たちは、厭世感に囚われるよりは、生き残りをかけて動物的な本能に身を任せているようにも見えます。もともとの日本人のメンタリティとか、宗教などの問題も無視はできないと思います。
ちょっと大胆な物言いですが、私はケータイメールなどの「コミュニケーション・ツール」が厭世感の蔓延に、一役かっているような気がしてなりません。たしかにメールは便利で、私も利用はしていますが、見方によっては「コミュニケーションをしない」ためのツールです。あくまで字面だけのやりとりで、そこにはフェイス・トゥ・フェイスで発生する感情の発露や、共感はありません。ひまさえあればメールでやりとりをしている若者たちに聞くと、メールでのつながりは淡雪のようにはかないもののようです。やはり直接に人と行動をともにして、話をして、ぶつかって傷ついたり癒されたりしながら生きていくのが健康的だと思います。人とのつながりを実感することができて、孤独にならなければ、厭世感に囚われることはないように思うのですが、いかがでしょうか。
2011年10月22日
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