2014年07月05日

相づち

カウンセリングで話を聴く時に、相づちをうつのはとても大切です。

「うん……、うん……」

とカウンセラーが相づちをうつことで、クライエントは「聴いてもらっている」感じを持つことができます。カウンセラーがだまったまんまでは、聴いてもらっているかどうか不安になってしまいます。またその相づちも「うん」、「はい」、「ええ」では印象が変わってきます。また同じ「うん」でも言い方ひとつで、同意にも疑問にも、あるいは驚きにも、意味を変えることができます。

相談員さんの研修、スクールカウンセラーのスーパーバイズや同席面接、あるいは大学院生のロールプレイなどで、相づちの仕方を指摘させてもらうことがあります。私は多くの場合、相づちが多すぎたり、単調なのが気になります。

「うん、うん、うん、うん……」

とやられてしまうと、クライエントは話すことを急かされるように感じたり、思いをはせながら言葉をつむぐことが難しくなってしまいます。傾聴は大切なことですが、くらいつくように、あるいは呑み込むように聴くのではないと感じます。全身全霊を込めて聴こうとすると、かえって見えるものが見えなくなってしまいます。クライエントにも、カウンセラーにも、想像力を働かせるスペースが必要です。

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2013年05月15日

雑草の痛み

春になっても肌寒かったのが、少しは陽気も出てきました。一雨降ると元気になるのが、雑草君たちです。今日は夕方にせっせと草むしりをしました。こっち、あっち、またこっちとむしりながら、思い出した話があります。

むかし東大に、佐治守夫先生という大先生がいらっしゃいました。ロジャーズの来談者中心療法を日本に普及させた、日本のカウンセリングの草分けと言うか、親分と言うか、ともかく偉い先生でした。私もお元気な時に、研修会で教えを受けたことがあります。その佐治先生が教え子に、

「いやしくもカウンセラーたる者、靴で踏まれた雑草の痛みを感じるようでなければならない」

とおっしゃったそうです。私がヒヨッコの頃に聞いたら、「ははっ、親分のおっしゃる通りでございます。至らぬことでございました」と恐れ入谷の鬼子母神だったことでしょう。でもその話を聞いたのはトサカが出かかった生意気ざかりで、「なに言ってんだか」と思っものでした。

「先生は草むしりで一本抜くごとに、身もだえなさるんですか。シラス干しは、大群が絶命する阿鼻叫喚を思い描きながらお食べになるんですか」

まあ、そんなことを言っていちゃもんをつけたくなる感じでした。向こうが親分なら、こっちはヤーさんです。しかし食べ頃を過ぎたヒネ鶏?となったいま、佐治先生は指導ではなくて啓発したくてでそう言ったのではないか、弟子があれこれ考えたりつっかかってきたりするのを期待していたのではないか、と思います。

これは私の解釈ですが、ストレートに指導をするなら「人の心には、とても思いもよらないこともあるんだよ。裏の裏まで思いをはせて、共感できるようでないと、だめなんだよ」と、そういう当たり前の話になってしまって、ちっとも弟子の心には残らないような気がします。本当のところはどうだか、わかりませんが……。
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2009年07月01日

友だちよりも、カウンセラー?

 中学校で英語の指導助手をしているアメリカ人の青年と、話した時のことです。私がスクールカウンセラーをしていると言うと、彼はとても大切な仕事だと言ってくれました。でも「悩みごとは友だちよりも、カウンセラーに話した方が良いもんね」とすんなり言った時には、ちょっとした違和感を感じました。でもそれをどう伝えたらよいものかと思い、話はそこで終わってしまいました。

 彼の考えはおそらく、こんな感じではないかと思います。――友だちであっても気持よく話を聴いてくれるとは限らないし、よい解決法を知らないかもしれない。たとえ相手が力になってくれようとしても、解決できなかったらお互いに気まずい思いをするかもしれない。カウンセラーに話を聴いてもらった方が解決の近道だし、友情を壊す心配もない。こうとらえると、いかにもアメリカ人らしい、実用的で割り切った考え方です。もちろん彼ひとりをして、アメリカ人を代表させるわけにもいかないのですが……。

 でも私は日本人で、それも少し古い型に属しているので、「悩みごとを話せてこそ友だちだし、そういう話をすることで友情が深まっていくものだ」と考えているところがあります。友だちが悩んでいるのに話してくれないとしたら、友だちがいがないと言うか、水臭いと思ってしまうのです。

 友だちには友だちの、カウンセラーにはカウンセラーの良さがあります。友だちに悩みを打ち明けたり、カウンセラーに話を聴いてもらったりと、両方を体験してみないとそれぞれの良さが分からないかもしれませんね。
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2009年03月21日

ぼくの好きな先生 (2)

 それこそ「たばこを吸いながら」だったし、先生はカウンセリングをしてくれるつもりではなかったのでしょう。でも、これが私にとってのカウンセリングの原体験だったように思います。そして、進路についてこんなやり取りがありました。

私:親は教員になって欲しいと思っているようだけど、自分は教えるよりも、話を聴くようなことを仕事にしたいんです

先生:へえ、それで大学はどうする?
 
私:できたら、心理学を勉強したくて

先生:ほう、それでお前は、カウンセラー的なものになっていくんだ

 技法的には「なりたいのか?」でも「なるつもりなんだ」でもなく、おしまいに「よく考えろ」がくっつくのでもなく、「なっていくんだ」と力強く終止形で閉じられているのがミソですね。暗示にかかりそうです。ひょっとして、もしかしたら先生はミルトン・エリクソンをひそかに研究していて、私を催眠にかけたのでしょうか。
 
 さて「カウンセラー」などと言っても、昔々の田舎の高校生のことですから、雲をつかむような話でした。でも、何かカギをひとつ見つけた手応えがありました。このカギはその後、行方知らずになります。大学は心理学科に入ったものの、カウンセラーのカの字も出てこない実験心理学しか教わりませんでした。卒業してからは、これまたカウンセリングとは無縁の会社で働きました。でもめぐりめぐって、またあの頃のカギを拾うことになったのは、われながら不思議です。
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2009年03月20日

ぼくの好きな先生 (1)

 高校生の頃だったか、RCサクセションの「ぼくの好きな先生」をラジオで聴きいていました。忌野清志郎さんのとぼけた味のあるボーカルが、好きでした。あらためて歌詞を調べてみたら、こんなくだりがあります。

  たばこを吸いながら  あの部屋にいつもひとり
  ぼくと同じなんだ    職員室が嫌いなのさ
  ぼくの好きな先生   ぼくの好きなおじさん

  たばこを吸いながら   劣等生のこのぼくに 
  すてきな話をしてくれた ちっとも先生らしくない
  ぼくの好きな先生    ぼくの好きなおじさん

 私が高校生の時には、日本史の先生の準備室に通っていました。彼は「すてきな話をしてくれた」のではなくて、「すてきに話をきいてくれた」のです。話しているうちに、自分の考えが整理されて気分がすっきりする感じでした。何より面倒がらずに聴いてくれて、否定されなかったのがうれしかったのだと思います。
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2009年03月09日

カウンセリングと心理療法 2

 心理「療法」と言うと、医療、あるいは医学的な行為を連想する人が多いと思います。ところが「心理療法」は、「薬物療法」や「手術療法」、「放射線療法」などの医療とは根本的に異なっているのです。
 言うまでもなく医療は医学モデルにしたがって、組み立てられています。医学モデルとは疾病の原因を特定して、その原因を取り除いたり、原因が引き起こしている症状を抑える、ということです。その手段として、薬物や手術や放射線が用いられます。
 また医学モデルは自然科学の成立には不可欠な、現象の再現性に基づいています。物理学や化学ほど厳密なものではないにしても、同じような状態の人に、同じ治療を施せば、同じような結果が生まれるという前提があるわけです。
 ところが心理療法をこのような医学モデルでとらえようとすると、無理が出てきます。人のこころに関わることで原因を特定したり、現象の再現性にもとづいた介入ができるかと言われれば、それはかなり困難なことであると言わざるを得ません、
 話は横道にそれますが、精神分析の祖であるフロイトは医学モデルで理論や技法を組み立てていました。近代科学が一気に花開いた時代ですから、無理もないことだと思います。そのフロイトの症例として有名な「狼男」が、晩年の自伝でこんなことを述べているそうです。「私はフロイトが言った解釈なんか嘘っぱちだと思っていたし、全く信じていなかった。でもフロイトは天才だった。私の人生に可能性を与えてくれた」と。フロイトが施した医学モデルによる治療ではなく、他の「どこか」や「何か」が狼男に通じたのでしょう。
 心理療法は「原因を取り除く」医学モデルではなく、新しい認知や行動のパターンを身につけるように援助する、教育モデルによっていると言えるでしょう。そこを確認しておかないと、臨床心理学の独自性を世間に理解してもらえないと考えます。
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2009年03月08日

カウンセリングと心理療法

 カウンセリングは学生相談などの、教育の分野で発展してきました。たとえばアメリカのスクールカウンセラーは、学習に関することから進路、友人や家族との関係、福祉サービスの利用など、すべて相談にのるそうです。生徒はカウンセラーに話すことで、より良い判断ができるかもしれませんが、「自分を変えよう」とは思わないでしょう。
 これに対して心理療法は、医療の分野で発展してきました。端的に言ってしまえば、ものごとの見方や行動の仕方を変えて、現実への適応を良くするのが目標になります。自分自身を、あるいは自分の生き方を変えていく、と言う側面を含んでいます。
 日本ではユーザーの方にも、カウンセラー(セラピスト)の方にも、この二つの区別はあいまいなことが多いようです。この二つをしっかり区別しなくてはならない、と言う人もいます。私もそうは思うのですが、その前に心理「療法」について、考えておかなくてはいけないことがあると思います。(続く)
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