2023年11月05日

「カウンセラー」の「集客」

ずいぶん昔のことですが、床屋のおばちゃん(ゴメン)と「客が来ないとき」について話したことがあります。
二人で同意に達したのは、「客が来ないと具合が悪くなる」(笑)でした。ここのところ新規の人が途絶えている、また来そうだった人が来なくなる……。何か失礼なことをしたんじゃないか、どこかの口コミでヘンなことを書かれているんじゃないのか、他のところに客が流れているんじゃないのか……と、あれこれ考えてしまうことがゼロだと言い切れる開業カウンセラーはいないんじゃないかな、と思うのです。

YouTubeには「カウンセラーの集客」と題する動画を投稿している人たちがけっこういて、ついコワイモノミタサで見てしまいました。中には「集客コンサルタント」みたいな人もいて、「開業カウンセラーは集客が全てです。もう一度言います、集客が全てですっ!」と連呼して、「安定した売り上げ」を確保するノウハウを説いていました。中には指南を受けて「半年で500人」を集客したクライアントと対談していました。そんなに集客してどうすんだと笑ってしまいましたが、この種の動画はコンサルテーションやコーチングの販促用のようです。

カウンセリングで開業をすると、それこそ集客から始めなくてはなりません。それは現実です。私の時代は職業別電話帳だったりしたのですが、いまはインスタグラムとかでしょうか。やりたくもないしできもしないことに、振り回されてしまいます。だから「開業なんてだれがやりたいと思うのさ」という方が健全です。組織で働いていれば集客なんかしなくて良いし、安定した収入も得られるのですから。

沢山見たわけじゃないけど、この人たちの共通点はカウンセリングを健康器具やサプリメントなどの、物販と全く同じビジネスとして捉えていることです。「商品開発」をして、その「効果」を求める人たちがアクセスできるようにする。たとえば「うつでお悩みの方」向けの商品。自分がうつで何年間もひきこもりだったけど、この方法でいまはこんなに前向きになりました……的なストーリーが必要です。それを実証する「これまで〇〇人の人から喜びの声をいただきました」とか、「顧客満足度〇%」とかも必要かもしれません。「ホントにそれだけ良くなってるの?」と証明を求められても、プライバシーをたてにすれば実例を挙げなくて済みます。「やってみたけど、ダメだった」は、「効果は人によって異なります」で終わりです。

カウンセリングは、ときとして人の命に関わります。私はこれまで40年近くやってきて、本当に良かったと思うのは「人の役に立ってきた」ことではなくて、「亡くなった人がいない」ことです。次に良かったのは自分や家族が、刃傷沙汰などに巻き込まれなかったことです。その次に良かったのは、訴訟にならなかったことです。いままでそうだったからと言ってこれからないとも言えないので、安全第一で取り組みます。

人の命に関わる医業では、従事者の資格が厳然と定められてきたし、広告や宣伝にも規制がかかっています。「集客コンサルタント」の指南を真に受けて集客したカウンセラーは、倫理的には完全にアウトだし、法律的にもグレーゾーンです。国家資格の公認心理師をもっている人はアウトで、無資格の人は医師法違反や公序良俗違反にならなければお咎めなしのグレーゾーンでしょうか。さすがに臨床心理士でひっかかる人はいない(と思いたい)でしょうが、倫理規定違反になるでしょう。「集客コンサルタント」の方は、「集客」を教えただけなのでお咎めなしです。そう言えば沈没して大勢が亡くなった北海道の観光遊覧船のコンサルタントは、元凶だったはずなのに、どうなったのでしょうか。

カウンセリングは素敵なこと、素晴らしいことというイメージがあるのか、人の役に立ちたいと思う人が大勢いるのか、関心をもつ人がとても多いようです。それは私にとっても嬉しいことなのですが、そういう人たちを食い物にしているビジネスが、「だれでも資格がもらえます」的なビジネスですね。カルチャースクールやオンライン講座など、もうゴマンとあります。それを運営しているのはおそらく就職先がなかった人たちで、就職先がなかった人たちが就職先できない人たちを大量生産し、大量生産された人たちが「集客法」を指南するという、もう目も当てらない状況が生まれているように、私には思えます。

臨床心理士でも公認心理師でもない人のカウンセリングが事故や事件、訴訟になって社会問題化すれば、カウンセリングは唯一の国家資格の公認心理師の業務独占にされるかもしれません。そうなったら困るのは、臨床心理士や認定協会です。認定協会がYouTubeなどの動画サイトで、臨床心理がいかに訓練されて責任を負ってやっているのか、どのように仕事をしているのか、楽しんで見ることができるような動画をアップするべきだと思うのです。
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2015年09月25日

役に立ってナンボ

この業界の人たちは先刻ご承知ですが、9月19日に国会で公認心理師法が可決、成立しました。もう30年も昔の話になりますが、「宇都宮病院事件」というのがありました。私がこの仕事を始めたばかりの頃に、毎日のように大きく報道されていました。「日本のアウシュヴィッツ」とも言われた、入院患者の虐待と致死です。この事件で日本は精神障害者の人権を尊重するようにと、先進国にはまれな勧告をWHOからを受けています。その勧告の中には、精神医学ソーシャルワーカー(PSW)と臨床心理学者の国家資格を作る、という項目がありました。PSWは1997年に、精神保健福祉法が成立していました。心理職が20年近くも遅れたにのはそれなりの事情がありますが、ここでは省きます。

もともと「臨床心理士」(財団法人日本臨床心理士資格認定協会が認定している資格)は、ゆくゆくは国家資格にするための過渡期的なものでした。ただ学部卒でも取得できる法案だったために、「臨床心理士」の養成をしている「指定大学院」の人たちと、認定協会の人たちが反対して難航していました。利権とメンツから政治的なかけひきが始まるのはどの世界にもあることかもしれませんが、今後にしこりを残さないことを願っています。そのしわ寄せは、次代を担う若い人たちに行くからです。

「指定大学院」の仕組みは、臨床心理学を学びたくても実験心理学しか学べなかった、日本の心理学教育のあり方を変えるきっかけにはなったと思います。ただ、妙なエリート意識を持つ人を増やしてしまった弊害がありました。これは「臨床心理士」の産みの親とも言える、河合隼雄先生もこぼしていらっしゃったくらいです。私は大学院で授業をすることはありますが、指定大学院はおろか、大学院も出ていません。その現場叩き上げゆえの妙なプライドがあるのかもしれませんが、自分の臨床経験で裏づけられていないことを、臨床の専門家として話すのは良くないと感じます。

今回の法案成立には、「心理学ワールド」(心理学諸学会連合)が賛成していました。実験心理学の人たちも賛成、ということです。心理臨床学会では、養成システムにアメリカのサイエンティスト・プラクティショナー・モデルを採用しよう、と言っている人もいます。これはざっくり言えば、実験心理学の研究ができるようになった人に、臨床心理学の訓練をしようということです。これは本家のアメリカでも賛否両論があるし、私自身はムダがあまりにも大きいと感じます。条件の統制や統計処理など、客観的な視点を持つことは臨床にも必要だとは思いますが、何年間も費やすことではないでしょう。実験は実験、臨床は臨床です。結局は実験心理学の人たちも味方につけるための、ご都合主義のように思います。

臨床心理士も増えて来て、資格さえあれば仕事にありつけるという時代ではありません。あと何年かすれば、臨床心理士たちの多くが公認心理師を受験するようになるでしょう。公認心理師は持っているけど、臨床心理士は持っていないという人たちも参入して来るでしょう。他にも産業カウンセラーや、カルチャースクールや通信教育の作った資格もあるし、それで開業している人たちもいます。資格はスタートラインに立つためのものでしかありませんが、そこで色々な動きが生じて来るでしょう。でも結局は来談者の、職場の、世の中の、役に立つこと。その原点を大事にしていくしかないと思います。
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2013年05月08日

臨床心理士は態度がでかい

私はとくに熱心に更新しているわけでもなく、PVがいくつかとか気にしているわけでもありません。でもたまにブログのアクセス解析を見たりすることもあります。「検索ワード」のところを見ると、どんな言葉で検索をかけてこのブログにたどりついてくださったのか、分ったりします。その中に、

「臨床心理士は態度がでかい」

という検索ワードがありました。これはガックリ、ですね。臨床心理士はそう思われた時点で、来談者の役に立つことも、他のスタッフの役に立つことも、ひどく難しくなってしまいます。しかし他人からそう思われても仕方のないような人を、ごくたまに見かけることも事実なのです。

「医者だって、看護師だって、学校の先生だって、いろんな人がいるでしょ」

という逃げ口上が通用しないのは、やはり人のこころに接することをむねとする仕事だからでしょう。「態度がでかい」運転手のタクシーにはガマンして乗ることはできても、「態度がでかい」カウンセラーに話を聴いて欲しい人はいないと思います。

故河合隼雄先生は私などが言うまでもなく日本の臨床心理学の草分けであり、日本人で初めてユング研究所の分析家の資格をとられて、論文・著書多数(無数?)で、京都大学教授から文化庁長官まで務められた方でした。臨床心理士の生みの親とも言える存在で、「河合チルドレン」を自認している臨床心理士も沢山います。その河合先生のお言葉で、

「威張っているやつは、最低だ」

というのがあります。河合先生ご自身は偉い先生であっても、偉ぶったり威張ったりすることがまるでなくて、私たちにも対等の関係を作ってくださっていたように思います。私自身も「態度がでかい」と見られるようなことがないように、気をつけていきたいと考えています。
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2012年06月26日

白衣を着る人、着ない人

病院やクリニックで働いている臨床心理士には、白衣が支給されることがあります。自分の意志とは関係なく、ユニフォームとしての着用を求められる職場もあることでしょう。白衣にネームプレートを着けるのが、一般的だと思います。

もともと白衣は、医師が処置をする時に衣服が汚れないようにするための、作業着的な意味があったのでしょう。医師とは白衣を着るものというイメージが定着すると、処置をするかどうかに関わらず、ユニフォームとしての意味をもつようになったのだと思います。もちろん臨床心理士は医師ではありませんが、他の医療スタッフがみな白衣を着ていると、自分だけ私服でというわけにはいかなくなったりもします。

白衣を着れば患者さんにはいかにも専門家らしくというか、「知識や技術を備えていて、頼ることができる」人に見えることでしょう。それは安心感にもつながりますが、依存やサド・マゾヒスティックな関係にもつながります。医師でも白衣を着ない人がいますが、それなりの考えがあってのことだと思います。

私自身が精神科の病院で働いていた時には、白衣の着用を求められていました。どんな身なりでも上から白衣をかぶってしまえばそれらしく見えるという実用性?はありがたかったのですが、「治療者」と「患者」の関係性を強調する感じで、好きではありませんでした。しかしまあユニフォームではあったので、病棟に入ったり外来の仕事をする時には白衣を着て、デイケアに行くときには脱ぐようにしていました。

ずいぶん昔に神田橋條治先生から聞いたお話ですが、「経験の浅い治療者は白衣を着ないでいると、権威主義的な態度をとる」という研究があるそうです。それはそうだと思います。白衣に助けられてリラックスできるのであれば、その方が患者さんにもメリットがあると言えるかもしれません。
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2011年12月23日

幇間稽古

池波正太郎の時代小説に、「剣客商売」があります。文庫本で16巻。私はたまたま図書館の軒下のリサイクルコーナーで見つけて、どっさり持ち帰ることができました。その中に「幇間稽古」という言葉がでてきました。ちなみに幇間(ほうかん)とは「たいこもち」で、宴会などを盛り上げる男性の芸人です。芸者さんと違って美貌や色気を売り物にできないし、人と人の間を取り持つのも芸のうちなので、これまた難しい商売のようです。

さて幇間稽古とは、道場主が門人を集めるためにほめそやす稽古のことを言っています。「そんな稽古では伸びしろがあっても、そこで止まってしまう」とか。まあできないものを「できている」と言う方も言う方だし、そう言われて「できている」と思ってしまう方もしまう方なのですが、ともかくそんな稽古では害の方が大きいわけです。それと同じような現象は、私たちの業界でもあり得ると思います。

もちろん、やたらに厳しくすれば良い、というものでもありません。事例検討で頭ごなしに怒られて泣かされるとか、寄ってたかってイジメのような様相を呈するとか、そういうのもどうかと思います。名の通った先生でも、「この人はクライエントに共感しろと言っているけど、どうして目の前の発表者に共感できないんだろう」と首をひねってしまうようなこともあります。幇間稽古にしても、サド・マゾヒスティックな関係を作ってしまうことにしても、どちらも自己愛の落とし穴にはまっているのは同じで、いわばコインの裏表のようなものだと思います。

対等の関係を作って、その中で一緒に考えてゆけること。課題を見つけたら、指摘すること。良い所を見つけて、伸ばすこと。恐ろしいもので、年齢を重ねると人の指導をすることも出てくるのですが、自分はそうなりたいと思っています。
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2011年02月14日

代議員選挙

日本臨床心理士会から、大きな緑色の封筒が届きました。赤字で「代議員選挙 投票用紙在中」とあって、なかなかの存在感です。今度の選挙は今の構想で資格法制化を進めるかどうかの、いわば関ヶ原のようなものだとか。各候補者の「一言PR」も掲載されていますが、「東方」なのか「西方」なのか旗色不鮮明な人もいて、ここは○(推進)とか×(反対)とか分りやすく表示してあると、投票する方も選び易いのではないかと思いました。

それにしても思うのですが、「河合隼雄先生の遺志」は「臨床」と言うコトバをつけることなのでしょうか、それとも心理学を職業にするということなのでしょうか。私は後者ではないかと思うのですが、まあ人それぞれなので……。

臨床心理士の皆さん、とにかく棄権しないで投票しましょう。
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2010年09月11日

わいせつ事件

八戸市民病院の臨床心理士が、患者の女子高生にキスなどをしたとして、逮捕される事件がありました。同業者の間では「とても迷惑な話だ」とか、「事件を知ってからも診療させた病院も、いったい何を考えているんだろう」とか、まあそんな反応が一般的なんだろうと思います。でも私は「とんでもない人」が「とんでもないこと」をした、つまり自分とは一切関係のないこととして済ませてしまうのも、どうかと思うのです。むしろ自分自身のこととして、とらえ直す必要があるのではないでしょうか。

報道通りであるとすれば、その臨床心理士は自分の欲求を満たすために、患者を利用したということになります。たとえばフロム・ライヒマンは「積極的心理療法」の中で、そういうことが起きないように治療者は自分自身の欲求をプライベートな生活で満足させておくべきだと述べています。それは性欲に限る話ではなくて、居眠りしないように十分寝ておくことなども含まれます。私たちはそういった努力を、ふだんからしているでしょうか?

また治療が密室での秘め事みたいなってしまうと、治療者が「二人だけの関係」に耽溺してゆく可能性が高くなります。病院の面接室は、完全な密室だったのでしょうか? プライバシーを守るためにはある程度の密室性は必要ですが、ちょっとした外の物音や磨りガラスごしの人影などは、あった方が良いと思います。また職場での症例検討会や、学会や研修会で症例の報告をすることも、心理的な密室性を減らすことにつながります。不祥事を起こす治療者が、学会や研修会に出てこない人だった、と言う話は時折耳にします。

また症例報告を聞くと、転移性の恋愛感情を向けられたまま、それを面接の中で取り上げないでにこっそり楽しんでしまう人が見受けられます。特定の患者を特別扱いしたり、何が何でも学会発表をしたりする人も、自己愛を満たすために患者を利用していることになります。たとえば教師が本人の意志には関係なく難関校に進学させようと躍起になるとか、まあこういうことは世間にありふれてはいるのですが、臨床心理学に関わる者は心しなくてはなりません。
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2010年04月14日

あしたをつかめ

 NHKの教育テレビで、「あしたをつかめ」と言う番組があります。いままで和菓子職人を目指している女の子とか、何回か見た記憶があります。4月2日には「NO.235 臨床心理士」が放送されました。この情報は県の心理士会のメーリングリストで流れていたので、録画してありました。それで、今日になってやっと観ました。番組では臨床心理士4年目の斉藤愛さんが、紹介されていました。

 臨床心理士は「とにかく、とことん話を聴く」とされていました。もちろん傾聴は臨床心理士にとって基本的なことだけれど、世間から「臨床心理士=ただ話を聴くだけの人」と思われてしまっては、ちょっと困りものだと感じました。「こういうアプローチもある」くらいが良い感じではないかな、と思いました。

 ケース検討の様子も、紹介されていました。ほんの一部を切り取っただけなのでしょうが、見る限りでは典型的な「ケース検討」のようでした。先輩方からの助言(突っ込み?)でお腹が一杯になって、あるいは涙目になって、「勉強になりました。課題だらけです」でお終いになるやつです。これが言ってみれば、独り立ちしていく上での通過儀礼みたいなものかもしれません。でもどんなケースを出しても最後の言葉が判で押したようにこうなるのでは、ちょっとどうかなあとも感じます。

 もちろん提出者が問題点を指摘されても理解できないとか、逆ギレするとか、あるいは逆に提出者をヨイショしてお終いになるとか、そんなケース検討よりはよほどましなのですが。たしかに斉藤さんの対応は全面的に賛成できるものではなかったし、コメントをした人は正しいことを言っていました。そもそもコメントは「後出しじゃんけん」みたいなものだし、「正しい」ことは人を傷つけるのです(言わなくてはなりませんが)。そこら辺を踏まえてコメントできるかどうかが、大事かなと感じました。

 斉藤さんの職場が銀座の近くで民間のカウンセリング機関とあったので、出てくるかなと思っていた菅野泰蔵さん、やっぱり出てきましたね。大学の大先輩をつかまえて失礼なのですが、実に良い感じのおじさんになったな〜と感じました。偉そうなことを言って、ごめんなさい。斉藤愛さん、これからの活躍を期待しています。
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2009年12月31日

年の瀬になって

 国家資格化の話が揺れています。すでにネットで話題になっています裕's Object Relational World。もちろん私も無関心ではありませんし、自分にできることは何とかしなければと考えています。

 これから若い人たちに道を譲っていく人たちが、若い人たちのことよりも、自分のことばかり考えているようではいけません。私自身、自戒しなくてはいけない年代にさしかかってきました。「金を残して死ぬのは下、仕事を残して死ぬのは中、人を残して死ぬのは上」とは、「大風呂敷」とも揶揄された岩手が生んだ政治家、後藤新平の言葉です。私たちはこれから、どのようにしたら「人を残す」ことができるのでしょうか。

 私たちがよって立つところは、結局は理論でも技法でも資格でもなく、自分のことはさておいて「人の役に立つ」ことではないでしょうか。そこを踏み外さなければ、何とか生活をしていける、そう言う世界であって欲しいものです。
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2009年11月13日

なぜ目指すのか?

 臨床心理士を目指す人が沢山いて、指定大学院はどこも盛況のようです。「1万人になった」と聞いてびっくりしていたのもつかの間、今や2万人を超える人たちが資格を取得しています。以前から非常勤の職場が多く、公務員を除けば経済的にはつらい仕事でした。私自身は偶然にこの仕事に就いたようなものなので、こんな仕事(!)にどうして大勢の人が魅力を感じるのか、不思議な思いすら持っていました。

 お金になる仕事をしたいとか、安定した職業に就きたいと思うのは、健康的だと思うのです。経済的な見返りがない仕事に就こうとするのは、何を見返りに求めているのか、臨床心理士を目指している人にはよく考えて欲しいと思います。もし「お金になる仕事」と思っているのなら、それは情報不足か勘違いなので、方向転換をお勧めします。アメリカでは博士号まで取って、経済的な理由で株の仲買人に転じるような人も珍しくはないそうです。

 さて、よくよく考えてみると。本当は自分が世話をして欲しいのだけれど、他人の世話をすることで代償的な満足を得ようとしていた、と言う人がいるかもしれません。身内が病気や障碍をもっていて、それを何とかしたいと思ってきた、と言う人もいるかもしれません。こういう動機も否定されるべきではないと思うし、実際に対人援助の仕事に就く人には、多いのだと思います。ただそれを認識できないでいると、自己満足のために他人を利用し続けることになります。

 「血ヘドを吐くまでやれ」などとのたまう偉い先生がいらっしゃいましたが、ろくに良いこともないのに命がけになるのは、ある種の病気です。 
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2009年10月04日

臨床心理士になるには

 「臨床心理士になるには……」と一生懸命に情報を集めて、あれこれ考えて、大学院に進んで……という人たちが、大勢います。ある大学の教授が、「臨床心理士の資格ができてから、どうしたら臨床心理士になれるかって言う話ばっかりで、どうしたら良い臨床心理士になれるかと言う話はさっぱり聞かなくなった」と言っていました。たしかに全く、その通りです。
 
 「昔は良かった」みたいな話はしたくないのですが、私たちのように資格など影も形もない時代に育った世代は、「良い」臨床心理士になるしか生き残る道がなかったわけです。なるのは簡単、続けるのは難しい、と言う認識もありました。ところが今は「なる」ことがゴールのようになってしまっています。もっとも指定大学院に入るのがけっこう難しいと言う話も聞くので、それはそれで致し方ない面もあるのでしょう。

 では「良い臨床心理士」とはどのような人を言うのか、これもまた難しい問題です。それぞれが、一生をかけて追求する課題かもしれません。さしあたり心理的な困難を抱えている人の役に立てること(少なくとも害にならないこと)、そしてそれが臨床心理学の独自性と専門性に基づいていること、その援助のプロセスを説明できること、と言うことになるのでしょうか。実際にやろうとなると簡単なことではないでしょうし、この道で一人前みたいな感覚が育って来るには仕事に就いてから10年くらいはかかると思います。

 今の若い人たちは、なまじ資格があるだけに、すぐに「何ができるの?」と問われることになります。昔のように心理士が何をする人なのか雇っている方もよく分からないとか、初めのうちはむだ飯を食わせておいても良いとか、牧歌的な環境がないのは気の毒な感じもします。やっぱり「昔は良かった」みたいな話になってしまって、ごめんなさいです。
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2009年06月14日

事例検討に思うこと その3

 事例検討会で発表する時には、クライエントに了解をとることがこの業界ではスタンダードになっています。その背景にあるのはプライバシーの保護と、心理臨床のプロセスはクライエントとの共有財産であるから、臨床家が勝手に持ち出してはならないという発想だと私は理解しています。それも分からなくはないのですが、どうも「インフォームド・コンセント」と同じうさん臭さを感じてしまうのです。それは「十分に説明した上で、患者が選択したのだから、こちらの落ち度はありません」と言う、逃げ口上のうさん臭さです。

 例えば心理療法が終結して1年なり2年なりしてから、治療者から「あなたとの心理療法を学会で発表したいのだけれど、良いですか?」と電話があったとします。「お世話になった」治療者からの申し出を、断れる人はいないのではないでしょうか。そして傷ついてゆくと思います。心理療法のプロセスが濃密であればあるほど、内面を露呈していればしているほど、自分と治療者の二人だけのものにしておきたいと、思うものではないでしょうか。支払った料金以上のものを治療者が得ようとしている、搾取に感じるかもしれません。「なぜ自分が選ばれたのだろう」と言う疑問も、わいてくるでしょう。

 もしクライエントの了解を取るのであれば、発表原稿をクライエントに見せて、どのようなディスカッションがなされたのも報告して、クライエントも得るものがあるようにするのが、筋でしょう。でも「閉じられた」ものを「開ける」リスクを冒してまで、行う価値があるのでしょうか。

 私は継続中のケースを発表したことはありませが、もし継続中のケースを出すのなら、了解をもらって報告もするのが良いと思います。でも終結したケースについて、発表する前に了解をもらうのは、考えものです。私自身は初回のプライバシーに関する取り決めで、「個人を特定できないように配慮をして、守秘義務を負った専門家を対象に、ケースを提示すること」の了解をもらっています。これもまたうさん臭いかもしれませんが、後で了解をもらってクライエントを傷つけるよりは良いと考えています。
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2009年06月07日

事例検討に思うこと その2

 発表者が「教えてもらう」ような事例検討会は、サド・マゾヒスティックな関係を作りやすいように思います。同業の先輩や偉い先生から、痛いところを突かれたり、自分の理解の不足を思い知らされる。少なくとも私が若い頃には、誰もがそういう修羅場をくぐって成長していくものだ、という雰囲気があったように思います。自分もそうやって鍛えられてきたのだから、後輩も同じように鍛えてやらねば……と、姑の嫁いびりみたいなものかもしれません。

 コメントがサディスティックになるのは、下手な治療の報告を聞くとクライエントに同一化してしまって、クライエントのことが気の毒になってくるからでしょう。偉い先生が発表者をちくちく刺すのを聞きながら、「この人はクライエントに共感しろと言いながら、何で目の前の発表者に共感できないんだろう」と疑問に思ってしまったこともあります。

 そう言えば若い頃に参加していた定例の検討会では、発表者でなくても怖い思いをしていました。黙っていると怒られる、発言してもこれまた怒られると言う、ダブル・バインド状況でした。よく辛抱して通っていたと思うのですが、当時はそれほど苦痛に感じていなかったので、いくらかはマゾヒスティックになっていたのでしょう。

 こんな嫁いびりのような事例検討は、過去のものになっているように思います。今や立派な?姑世代に属している私ですが、あれで鍛えられたとは思えても、全面的に良かったとは思えません。まして若い人たちを、ああいうやり方で鍛えてやろうとも思いません。 
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2009年06月02日

事例検討に思うこと その1

 5月2日に、事例検討のレジュメについて書きました。レジュメについて書き始めると、事例検討そのものに触れないで済ますわけにはいかなくなってきます。で、遅すぎるのですが、ひと月経っての続編です。まず事例検討はだれのためにあるのか、を考えてみましょう。こういちろうさんがコメントで書かれている、言ってみれば「気づかれていないことに光をあてる」ような質問には、発表者や参加者をケアするような配慮があるように感じました。

 実際にそういう教育的な配慮に満ちた質問や意見が飛び交う事例検討会は、よくあるのです。とくに経験の浅い発表者が「困っています」とか、何もわからないので、教えてください」といった感じやると、そうなりがちです。自分のケースについて理解を深めたいとか、もっと良い介入方法があるなら教えて欲しいとか、熱心な人ほどそう思うでしょうから、そのような事例検討を無意味だと言うつもりはありません。でも本来は、スーパービジョンの中で行われるべきです。

 逆に「勝てば官軍」とばかり、お墨付きが欲しいとか、手柄話をしたいとかで発表しているような人もあります(こっちが勝手にそう思ってるだけだけど)。これはこれでそれとなく、あるいはあからさまに、天狗の鼻をへし折ってやろうと教育的なコメントが飛び交ったりします。もっともそれくらいでは天狗の鼻はへし折れるわけもなく、コメントをした人たちは、ため息をつきつつ会場をあとにすることになります。なにも発表者の自己愛を治療するために集まったわけではないので、こういうのも時間の無駄づかいでしょう。

 事例検討は参加者のためにする、のが基本ではないでしょうか。「自分はこんな風に理解する」とか、「自分ならこう介入しようと思う」とか、それぞれの意見を出し合って、理解を深めていく機会だと思うのです。だからディスカッションの時間を、長くとって欲しいのです。そしてフロアでのやりとりが盛り上がるような事例検討が、結局は発表者にも実り多いものになるのではないかと思います。

 ちなみに神田橋條治先生は、ご自分が講師の時には「事例検討」と言いません。「公開スーパービジョン」です。その理由を「発表者が多勢に無勢で立ち回るのは嫌だから」とされていました。発表者と参加者のやり取りがない形ですが、これはこれで「とにかく教えて」の人にも、「どうだ見たか」の人にも、そして神田橋先生の話を聴きたくて集まった参加者の人たちにも、良いように思います。
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2009年05月02日

事例検討のレジュメ

 ピュアリーさんが「事例検討のレジュメのまとめ方」について、書かれています。オーソドックスにはピュアリーさんのおっしゃる通りで、とくに病院に勤務している方にはなじみのあるスタイルだと思います。

 ただ私の好みを言わせてもらうと、「生育歴」と「現病歴」、「家族歴」、「治療歴」……と分けて書れていると、頭の中で時系列にそって整理するのがわずらわしく感じてしまいます。またこのようにカテゴライズして分析、分類しようとするスタイルは医学モデルに親和性が高いように思います。心理療法家の仕事(見立て)は、それぞれの「歴」に問題を見出すことよりは、その人のストーリーを組み立てていくことにあると、私は考えます。

 ところでレジュメはカルテに医師が記載したもの、面接の中で本人から直接きいたもの、家族から聞いたもの……など、出所が違うものが組み込まれていきます。カルテからどこを拾うか、クライエントの発言からどれを拾うか、自分の介入からどれを拾うか……結局は発表者が(もちろん私も)自分の都合のよいように、都合のよい情報を組み立てて提示しているわけです。そこに発表者の力量や人柄が現れることになります。ときには発表者がどんな人かはよく分かるけど、クライエントがどんな人かつかめない……などと言うことさえ起こります。良いレジュメとは、クライエント像や治療関係をつかみやすいものだと思います。

 またピュアリーさんは時間配分について書かれていますが、これはとても重要なことです。初心者のうちはどこが重要か分からないからみんな書いてしまう、ということもあるでしょうが、それでは検討になりません。何をどのように検討したいのか、そのための素材提供は何分以内にとどめるのか、計算することは必要です。延々と逐語を読み上げるような発表には、閉口してしまいます。
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2009年04月21日

お花見

 精神科の病院を辞めてから、干支が一回りしました。いま咲き誇っている桜を見ると、その病院のデイケアでお花見に行ったことを思い出します。私の中では「お花見」と言えば、「デイケアのお花見」と言うくらいに、印象に残っているんでしょうか。

 病院の周りは見渡す限りの田んぼで、つまりは相当な田舎にありました。栄養士さんにお願いして、おにぎり弁当を作ってもらって、20分くらい歩くと、めったに人の来ない公園がありました。桜の木が何本もあって、お花見にはもってこいなのでした。桜の下にシートを広げても、当然のことながら酒を飲むわけでもなく、大人しくお弁当を食べてお茶を飲んで、あとは日向ぼっこです。

 他にすることもないので、本当に花をよく見ていました。下から見上げた、太陽のまぶしさ。舞い落ちる花びら。芽吹いたばかりの若葉。今にして思えば、ぜいたくな時間でした。そう言えば、病院のマイクロバスで日帰り温泉に行ったりもしました。温泉に行けば一緒にお湯につかったりもするわけで、そんなことが臨床心理士の仕事と言えるのか……と思う方もいらっしゃるでしょう。

 一緒に歳をとっていくことも、臨床のうちなのです。
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2009年04月08日

臨床心理士が労働組合を結成

 臨床心理士が、労働組合を結成したそうです。

 発展途上臨床さいころじすとの航跡

 この件に関しては 裕's Object Relational World


 臨床心理士は未だ理念であって、職業として確立していないのだと思います。そもそも資格の策定に当たって生計が経つような職業モデルとして考えられていません。それは大学の教員という他に主たる収入源が安定している人々が、現実的な収入などに関して甘い見込みの元に量産した資格なので残念ながらこれが現状です。それによって臨床心理士養成は職業として安定したわけでが・・・。

 に同感です。朝日新聞への「ワーキング・プア」投書も話題になったばかりですが、現場の臨床心理士たちが身分や収入の不安定さに対して、声を上げ始めています。

 こうした動きに対しての臨床心理士たちの反応の温度差は、「それを覚悟で、この世界に足を踏み入れたのかどうか」によっているのでしょう。ある年代以上(40代?)の人たちは、まず覚悟をもってこの世界に入っています。「そんなこと、分かりきったことなのに、何を今さら……」って感じかもしれません。またそうした年代の人たちが、大学で教職についています。

 でも今の指定大学院を出た人たちは、そこそこの社会的ステイタスを伴った「職業モデル」を思い描き、自分への投資をして大学院に進んでいるようです。私の目にはそう映ります。「絵描きやミュージシャンになるのと同じようなもんだから、ダメだったらやめりゃあいいじゃん」というわけには、いかないのでしょう。もちろん幻想をふくらませた側にも責任はあるし、認定協会は臨床心理士の需給見通しと指定大学院の定員数について説明責任を果たすべきです。

 私自身も若い頃は民間病院の常勤職で妻子を養っていましたが、実家に居候していたようなもので、さすがのお上も給料から所得税を引きませんでした。これからも経済的な不安とは、お友だちでしょう。こういうことを書き出すとキリがないので、ここらへんでやめておきます。

 この記事を読んでいらっしゃる、臨床心理士ではない方々にお願いがあります。職業としての臨床心理学は、まだ始まったばかりです。育ち方によっては、心身の健康や社会の活性化に寄与する職業であると信じています。長い目で暖かく見守っていただければ、嬉しいです。
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2009年03月30日

石の上にも十三年

 私がこの仕事に就いたのは、人生の偶然のようなものです。あまりに私ごとになってしまうので細かいことまでは書きませんが、大卒後に東京でサラリーマン生活を1年半ほどしてから、郷里の精神病院で働き始めました。

 当時は今のように「臨床心理士」なる資格があるわけでもなく、メンタルヘルスへの関心もそれほど高くはなかったので、「人気商売に就いた」などと言う感覚は微塵もありませんでした。むしろ、裏街道に転じたような感じでした。ただ自分には営業で物を売り込むような仕事よりは、人を手助けするような仕事の方が向いているのではないか、と言う感覚はありました。実際に仕事ができるのかどうかは見当もつかなかったので、まず27歳までやってみてダメだったら違う職に就こうと思っていました。「石の上にも三年」そのままですね。結局その病院には3年プラス10年の、13年を勤めることになりました。

 私の職場は病院としては色々思うところはあったのですが、精神科と言うところは性に合っていたのだと思います。精神科を離れてから数年して、帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい 精神科医でもある小説家)の「閉鎖病棟」を読んだときには、なつかしい気持でいっぱいになりました。精神病院は私にとって石ではなくて、空飛ぶじゅうたんだったのかもしれません。
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2009年03月05日

未来永劫

 私が学生の頃…と言っても四半世紀も前のことですが、「サイコロジー」という雑誌がありました。そこに大学の教授が「日本にはもともと、キリスト教の懺悔のような仕組みがない。物に対してはお金を払っても、カウンセリングにお金を支払うなどという発想はだれももたないだろう。将来は日本でもアメリカのようにカウンセリングが普及すると言っている人もいるようだが、人の話を聴いてそれが職業になるようなことは、未来永劫、絶対にないと断言する」と書いていました。
 未来永劫どころか、三十年足らずで「絶対にない」ことが起きてしまったのですが、あの文章が印象に残っているのは、当時はすごく説得力があったからです。カウンセリングや臨床心理学を研究している人はいても、職業にしている人はいなかったと思います。私とて、自分が臨床心理学を仕事にするなどとは、想像もしていませんでした。
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