2021年09月17日

「生徒会」に意味はあるのか?

中学校の廊下に、生徒会役員の選挙公報が掲示されていました。当たり前になって、だれも疑問に思わない?「生徒会」なのですが、あれに何の意味があるのか、私は疑問です。「立候補」する子は、たいがいは先生から勧められたりしています。教員から見て「ちょっと、あの子はね……」なんて子が思いがけず立候補すると、「ふさわしい子」が擁立されたりします。いまは元気のある子が少ないので、信任投票だったりします。

そもそも、「生徒会」には何の権限も予算もありません。要は先生方の下請けで、やらされることは決まっている。それも「できる子」が、水面下で選ばれてしまっている。そこはもう暗黙の了解で、選挙なるものが行われている。「民主主義の仕組みを体験させる」という大義名分はあるのかもしれませんが、そこが問題だと思うのです。政治家の二世、三世、あるいは秘書、目をかけられた役人……そういう人たちが立候補して、「あれもやります、これもやります」とみんな同じようなことを公約にして、投票者は「できる人に任せておけば安心」みたいな、そんな大人社会の選挙の予行演習になっているのではないか、とさえ感じます。

生徒総会もすっかり管理されていて、質問もあらかじめチェックされています。執行部がひとこと回答すれば、「分かりました、頑張ってください」でお終いで、その場の議論というものがない。いまの国会や地方自治体の議会にしても、用意された原稿や役人の答弁だらけで議論がないのと同じです。政治への無関心、盲従、反発、無力感、そういったものは育っていくでしょうが、自らコミットしようとする姿勢は「生徒会」からは生まれて行かないと思います。

私が中学1年生のとき、生徒会長はかなり型破りな人物でした。「靴を履かなくてはいけないという校則はない」から、裸足で校内を歩き回る。運動は抜群にできるくせに、文化部に日の目が当たらないのは不公平だからと、美術部か何かに入って「文化大革命」を訴える(いまでは悪名高い毛沢東の暴虐な権力闘争ですが、何しろ中1ですから何だソレは……という感じでした)。「彼を生徒会長にしたら、どうなるんだろう?」と考えるチャンスは、上級生にはあったはずです。まあ彼も傑作だったけど、生徒会長にして泳がせていた先生方も偉かったと思います。

選挙で役員を選んで生徒会を運営させるなら、彼らに権限や予算を与えるべきでしょう。生徒たち自らが学校を良くしていくために関わる仕組みを作りたいのなら、「この指とまれ」のボランティア方式にすれば良いと思います。子どもたちが自分で居場所を見つけて、活動に誇りを持てるようになれば、成長の糧にもなっていくのではないでしょうか。

2021年06月24日

「学級崩壊」に思うこと

「学級崩壊」は小学校の先生がいちばん恐れている言葉、ではないでしょうか。私は自分の行っている中学校で、いわゆる学級崩壊を目の当たりにしたことはありません。ただ立場的に教育事務所管内の小学校にも関わることがあり、そこで助言を求められることがあります。大人(教員)の言うことを聞かない集団にどう対処するのか? まずどんな関わりを持つかを考える前に、「学級崩壊」を集団力動として理解してみることが、役に立つと思うのです。

崩壊したクラスは、いわば無目的集団です。本来の目的である学習よりも、ふざけて仲間内でウケるかウケないかが関心事になっています。「まじめにやるのは、バカくさい」といった価値観が共有されていて、学習に向かわせようとする教員に反発します。あるいは真剣に学習しようとする子をバカにしたり、攻撃します。その中心になっている子をよくよく見ると、発達特性があったり、学力的に及ばなかったりして、授業に集中できない(したくない)ことが多いように思います。そういう子にちょっかいを出されたり、悪ノリしたりしてふざける子も何人かいる。他の子たちは静かに授業を受けたいと思っていても、攻撃されるのが怖いから何も言わないでいる。そうなるともう、崩壊の一途をたどっていくようです。

「教員の指導力不足」であるかのように言う人もいますが、教員を悪者にしても解決にはつながりません。発達特性のある子が増えているのは事実でしょうし、その背景には環境汚染もあると言われています。ゲーム産業が子どもたちを食い物にしてきたことで、低学力になっている子もいます。また特別支援クラスへの在籍を勧めても、拒否する保護者もいます。分からない話をずっと聞かせることほど、不親切なことはないと思うのですが……。またいまの教育の仕組みだと、子どもたちが自分で学習の内容を選ぶことができません。色々な要因が重なって、授業が楽しいとか、面白いとか、感じられない子を作ってしまっているのが、学級崩壊の要因になっていると思います。

授業中に騒いでいる集団に向かって指導したり、管理職の先生や保護者が教室に入っても、モグラたたき状態になってしまって、落ち着かないでしょう。クラス内で悪口の言い合いが蔓延したり、不登校になる子が出たり、あるいは「自分たちはどうせダメなクラスなんだ」と卑下するような雰囲気が生まれたりします。

また私は、こうも思うのです。「リーダーを育てて、クラスを引っ張らせる」という陳腐で差別的なクラス運営が、子どもたちの間に「えこひいき」への恨みつらみを生んでいるのではないか、と。「学級崩壊」は、ひとりひとりを大切にしてくれない大人たちへの、異議申し立てであるようにも思うのです。

解決の糸口として考えられるのは、子どもたちひとりひとりと面接をすることです。指導するのではなくて、どんな気持ちなのかを話してもらう。集団になってしまうとふざけるしかない子でも、実は学校に来るのが楽しくないとか、本当は学びたいと思っている子もいます。また先生の話を聞いても分からないとか、自分が勉強できないのを知られたくない、そう思っている子もいます。これから先どうしていきたいのか、自分をどう伸ばしていきたいのか、子どもたちが自分で考えて、教員と共有できる場をもうけることです。個人(児童)がそれぞれの目的をもって、集団(クラス)に参加する、そういう視点でクラスを捉えなおすことが必要ではないでしょうか。

2019年04月12日

「PTA」から「保護者会」に

私の母親は、小学校の先生をしていました。3月に帰省したときに教員時代の昔話を聞いた(聞かされた?)のですが、その中に「PTAなんか止めれば良いのに」と言うのがありました。母親が働いていた頃は小さな学校に勤務すると、何から何までやらなくてはならず、給食を作っていたこともあったそうです。PTAは集金や会計、その他のおぜん立てまでしていて、これもとにかく大変だったと言うのです。母親が言うのは、「先生が大変だから」なんですね。

私たちも子どもが学校に通っていたころは、いかにPTAの役員を避けて通るか、あるいは無事にこなすかが保護者の関心事でした。役員を決める年度当初の集まりは、欠席する人もいたようです。とくに「卒業する年に役員をすると大変」と言われていたので、「6年生でやらないで済むように、今のうちにしておきたい」とか、みんな色々と考えてやってきます。

先生にとっても、保護者にとっても、悩みのタネになるPTA。耳学問なので、間違っているかもしれませんが、そもそもの始まりは「良い先生を守ろう」運動だったらしいです。昔のアメリカは校長先生の権限強くて、気にくわない先生を簡単にクビにできたそうです。「良い先生」がクビになったり、校長からのヘンな圧力を受けないように、教師と親が連合していきましょう、という Parent-Teacher Assosciation なんですね。日本では戦後に民主教育を定着させていこうという目的で、導入されたらしいです。本来の目的とも違うし、PTAにありがちな根回しと遠慮とボス化は民主教育とはかけ離れています。

最初から教師と保護者が「連合」してしまうから、保護者もホンネが言えません。「行ってもつまらない」とか「役に立たない」、形式だけの組織になってしまいがちなのがPTAの問題点なのかなと思います。わが家の子どもたちが通った幼稚園は、「保護者会」がありました。意見をまとめて幼稚園への要望を出すこともあるし、幼稚園の運営に協力することもあり、幼稚園との関係性が対等に感じられました。そして何より、和気あいあいとした親密な雰囲気がありました。子育ての不安や苦労を語り合うような土壌になっていたと思います。

いまの日本で児童虐待が深刻な問題になっているのは、ご存知の通りです。虐待の一要因としてあげられるのが、親が社会的に孤立しているということです。虐待防止の観点からも、「PTA」から「保護者会」に移行して、みんなで子どもたちを育てる、親どうしが語り合う、そんな地域を作っていくことができれば良いと思います。

2017年08月02日

夏休み

学校が夏休みに入り、私もひまな時期になりました。盛岡では太鼓を打ち鳴らして踊り歩くお祭り、「さんさ」の真っ最中です。出演する団体それぞれに、伝統や趣向があって、見に行けば楽しめるはず……なのですが、あいにく家にこもっています。たまったままの書類を整理したり、部屋の片づけをしたり、建具屋さんに入ってもらってドアを直したりと、ふだんできないことをやっておいて、2学期に備えるという感じです。

岩手県の学校は夏休みが短いので、2学期が実に長いのです。9月1日から始まるのではなくて、8月20日ごろから始まります。そのぶん冬休みが長くて、3学期はあっけなく終わります。北国で夏よりは冬の方が気候が厳しいから、ということでしょうし、たしかにお盆を過ぎれば涼しくなるので理にかなってはいるのですが、個人的には夏休みが長い方がありがたいです。

お知らせ:8月14日(月)〜17日(木)は、あゆみカウンセリングルームでお休みをいただきます。電話やメールへの対応もストップすると思いますが、よろしくお願いします。


2017年05月26日

スクールソーシャルワーカー

ここ何年かで、スクールソーシャルワーカーが学校に配置されるようになってきました。全国的なことは分かりませんが、私が住んでいる岩手県ではその質、量ともに向上しています。「質」については社会福祉士の資格をもって、福祉の領域で仕事をしていた人たちが配置されるようになりました。導入期には、必ずしもそうではない実態もありました。アメリカでは不就学児童への対策で20世紀初頭からの歴史がある学校ソーシャルワークですが、日本では今が黎明期ということになります。

どこからか「スクールカウンセラーには、スクールソーシャルワーカーのスーパービジョンをして欲しい」という声が聞こえてきたこともありました。おそらくは「どう動いて良いか分からない人たちに、動き方を教えてやって欲しい」というくらいの意味で、そう言いたくなる気持ちも分からないではありません。でも本来の概念からすれば、スクールカウンセラーはスクールソーシャルワーカーにとって、病院や児童相談所や適応指導教室など、色々な社会資源の一つです。せいぜい信頼して使ってもらえるように頑張るのが、関の山ということになります。

非常勤講師をしている大学院で、教授がカウンセリングとケースワークの違いについて、「よく使われるたとえ話が、うまく泳げない人に浮き輪を投げてあげるのがケースワークで、うまく泳げるように手助けするのがカウンセリング」と説明していました。このたとえ話は援助が直接的どうか、また必要性や緊急性によってそれを使い分けることを説明するにはよくできていると思います。足がつっているような人には浮き輪が必要だし、もうちょっとで泳げる人には浮き輪はかえって害になるでしょう。ただ「両方が必要な人」がもれてしまうのが、惜しいと思います。

スクールカウンセラーとして仕事をしていて、どうしてもケースワークが必要な生徒が出てきます。いまだったらスクールソーシャルワーカーさんにお願いするケースでも、以前は自分で関係機関に連絡をしたりして、ケースワークの真似事をすることもありました。若い頃に働いていた精神科の病院では、ソーシャルワーカーさんたちとのつきあいが濃厚だったので、「門前の小僧」なのです。ちなみに「習わぬ経」は「使えるものは何でも使う」と「思い立ったらすぐ電話」で、まことに頼りがいがあるというか先方も大変だろうなあというか、ケースワークとはその種の行為だと思っていました。

スクールソーシャルワーカーよりも歴史がちょっぴり長いスクールカウンセラーも、まだ専門職としての役割が不明確なところもあると思います。これから一緒に仕事をしていく中で、それぞれのアイデンティティを作りながら連携していければ良いと考えています。

2016年07月17日

熊本へ

 6月の末から7月にかけて、緊急派遣のスクールカウンセラーとして熊本市に行ってきました。東日本大震災では全国から、もちろん熊本県からも支援チームがきてくださいました。岩手から熊本に行くことができたのは、ありがたいことでした。雨続きを想定してゴアテックスのトレッキングシューズを履いて、衣類は撥水加工された化繊のアウトドアウェアを詰めました。おかげで、わりと快適に行動できました。

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 さて熊本と言えば「くまモン」ですが、駅長になっているとは知らなかった。あっちにもくまモン、こっちにもくまモンで、大活躍していました。

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 勤務は月曜日から金曜日まででしたが、前泊と後泊の必要があったので、6泊7日の日程となりました。天気予報通りほとんど雨の毎日で、余震もありました。とある小学校の校庭も、ごらんの有様です。

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こちらの学校には土砂災害を避けるために、山間地の小学校が間借りして授業をしていました。子どもたちも先生方も、大変な毎日を過ごしていることがうかがわれました。校庭や体育館で、思い切り体を動かして遊べないのは、子どもたちにとってはつらいことでしょうね。

 年配の女性に道を訊ねたら、「ぜひお城を見ていってくださいね、崩れちゃって最悪の状態ですけど……」と言われました。拝観は中止されているのですが、夜はライトアップされているそうです。街を歩けば敵を待ち伏せするためのクランクが沢山あるし、私たちが泊まっていた高校は大雨で浸水しそうになりますが、もともとは敵をひきこんで水攻めにするための低地だったそうです。そこかしこに加藤清正公の計らいが見えるような街なので、自分の家の雨漏りよりも熊本城の心配をしているような人が大勢いても無理はないと思いました。ちなみに、熊本は瓦屋根が多いのですが、瓦を焼くのがとても追いつかないそうです。職人さんもいないということで、屋根にダメージを受けた家はブルーシートがかかっています。

 街では「から揚げ屋さん」をよく見かけました。それに全国展開しているほか弁チェーン店ではなくて、「お弁当のヒライ」があちこちにあります。イートインスペースもあって、麺類も出してくれるようです。宿舎の近くにもあって、お世話になりました。ちくわにポテトサラダを詰めて天ぷらにした「ちくわサラダ」、それに「いわしハンバーグ串」です。

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 ちょっと驚いたのが、水道水が美味しいことです。聞けば熊本市は、水道水の全てを地下水でまかなっているそうです。美味しい珈琲屋さんもあるのだろうなあ……と思っていたら、ありました。「まる味屋珈琲店」は先代が昭和25年に開業されたとかで、自家焙煎店のさきがけでしょう。お店に鎮座するのは、ドイツはプロバット社製の50ポンド(18kg)焙煎機です。

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 マスターは「沢山焼いても豆が古くなっちゃうし、うっかり発火すると消防車が20台くらい飛んでくるから」と、少量ずつ焙煎しているそうです。熊本の「地コーヒー」的な豆を、お土産に買ってきました。

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生豆を1年間自然乾燥させて、極浅煎りにして、粗びきにして低温抽出です。ほうじ茶よりも薄い色で、これがコーヒーなの?って感じです。でも甘味と渋みが重厚感を出していて、生焼けだけにカフェインは多量に含まれている感じです。コアなファンがいまだに多いというのも、うなづけます。普通に挽いて濃度を上げようとしましたが、何しろ生焼けなので生臭くなってしまいます。言いつけは素直に守った方が良いですね。

 一概には言えないのでしょうが、熊本の人たちは生真面目で熱血な人が多いような印象を受けました。それでいて、フレンドリーに話しかけてくださいます。私は転勤族のような暮らしはしたことがありませんし、長期出張するような仕事もありません。せいぜい学会や研修会で2〜3日、出かけるのがせいぜいです。1週間くらい滞在してみると、その土地の色々なところが見えてくるし、顔見知りもできてくる。なんだか新鮮な体験でした。ガイドブックやネット情報なしで、自分の目で見て歩き回ったのも良かったと思います。

 今回は熊本市教育委員会、熊本県臨床心理士会、訪問した小中学校の先生方、それに生徒さんたち、地元の人たち、皆さんにお世話になりました。どれほどお役に立てたのかとも思ってしまいますが、支援を通して人のつながりを感じることができたなら、お互いにとって良かったのだと思います。東北もまた復興への道のりは遠いですが、一歩ずつともに歩んでいきましょう。

2015年11月21日

生徒会の選挙に意味はある?

中学校に行ったら机上に、生徒会の選挙結果のプリントがありました。そう言えば朝に校庭でタスキをかけて、「よろしくお願いします」と声を張り上げていた生徒たちがいました。でも生徒会長、副会長、書記……とほとんどは対立候補がなくて、信任票でした。これだけのことに選挙委員会を組織して、立ち会い演説会をして、投票、集計……と、費やす労力たるやそうとうなものです。そもそもだれが立候補するかも、けっこう先生方の意向が働いていたりするようです。どう見ても無理そうな子が立候補したら、対立候補を擁立するとか……。子どもたちも「頭の良い人がなるもの」と決めてかかっています。

そもそも生徒会の執行部といっても何の決定権もなくて、先生の決めた枠の中で動くだけです。「私が生徒会長になったら、制服を廃止します!」などと言うことはあり得ない。役人や経済界の決めた枠の中で動く政治家を、「よろしくお願いします」を連呼する選挙で選ぶ、大人社会のくだらない?選挙を学習させるようなものではないでしょうか。そんなことに時間を費やすなら、キャンプでもして生活体験をつんだ方が良いのではないかと思ってしまいます。

プリントをながめながら、「こんなこと、止めれば良いのにねえ……」とつぶやいたら、となりにいた保健室の先生が興味を示しました。

「止めて、どうするんですか?」

「選挙で選ぶんじゃなくて、校内の色々な活動を、この指とまれのボランティア方式にすれば良いと思うんですけどね。これからの世の中は、上の人が何かしてくれるのを待っているんじゃなくて、自分たちで動くのが大事だと思うし……」

「へえ……私たちは学校の中にいると、やるのが当り前になってしまっていて、そんなことは思いつかないですね。外から見る人の意見は、貴重ですね……」

気を遣って感心したふりをしてくださったのかも、しれませんが……。

2014年08月23日

蚊に刺されました……

保健室で打ち合わせをしていたら、養護教諭に用事ができてしばし留守番をしていました。すると女の子が入って来て、「保健室の先生は……?」と言います。「いまは職員室にいかれてるんだけど、どうしたの?」と答えると、「蚊に刺されました……」と言うのです。

「ナニい、蚊に刺された? だから、どうしたの?」と言いたくなる気持がのど元まで来ましたが、そんなことを言ってしまったらマズイのです。蚊に刺されようが、アブに食われようが、ヒルに血を吸われようが、「そんなもん、小便でもつけとけっ!」と言われてきた私たちとは、時代が違うのですから。今の子たちは蚊に刺されれば、親から何かクスリを塗ってもらうのが当り前なのかもしれません。

「見せてごらん。ああ、たしかに二つ食われたね。保健室の先生、もうすぐ来られるからちょっと待っててね」と待ってもらいました。養護教諭は彼女の期待通りの処置をしてあげて、教室に返しました。彼女は「今の子はちょっと気にするたちなんですよ。それに今は何でも、きちんと処置をするのが当り前になっちゃって……。昔はそこらへんすりむいても、血を流しながら体育をしていたのが当り前だったんですけどねえ」と、全面的に良いことをしているとは思っていないようです。そうは言っても保健室に来た子に「そんなの、放っておけばよいのよ」とも言えないようで……。

2013年09月03日

緊急支援の負担

先週は県内の中学校に緊急支援に入りました。そこでは教職員と生徒に、トラウマになるようなことが発生してしまいました。水曜日にはコンビを組むスクールカウンセラーと、一緒に学校に行きました。状況把握と子どもたちの観察をして、支援のプランを練りました。金曜日には私が個別対応をしました。今週の月曜日には、もう一人の方が子どもたちにサポート授業をしてくれました。

私は先週の土日と研修会で上京したのですが、蕎麦屋から出る時に大きなガラスに激突する(店員さん磨きすぎ!)、地下鉄の改札を出たのに地下道で「切符はどこへやった」と騒ぐ、メガネをしているのに「メガネはどこだ」と言う、地下鉄を逆方向に乗って戻る……と、散々でした。まあ普段の行動の延長線上ではあるのですが、それにしてもひどかったです。

さいわい同業の友だちと一緒に行動していたので、「金曜日に緊急支援でね……」と話したら、「そんな話を聴いてきたのなら、いまこんなんになっていてもおかしくないよ」と言ってもらえました。トラウマに関する話を聴いているうちに、負担がのしかかっていたようです。注意散漫に、気をつけなくてはなりません。今回は70kmほど離れた学校に車で行ったのですが、岩手県は広くて公共交通機関が不便なのが辛いところです。

2013年04月22日

修学旅行には、行けたけど

とある中学校の話です。不登校の生徒が修学旅行に無理矢理?連れて行かれて、それでも楽しんで帰ってくることができましたが、それからまた学校に来なくなりました。「修学旅行に最後まで参加できたのだから、学校に来れないのかなと思うのですが……」と先生。そうお考えになるのも無理はないのですが、でもこれが普通のパターンです。

「ああ、修学旅行の方が、学校よりも楽なんですよ。まずは学校でないし、次から次に色々なことが起きて、子どもたちどうしのふだんの人間関係は表に出てきませんから……」とお話をしました。ドラえもんの映画をご覧になると、テレビの時よりもジャイアンがのび太に優しくないですか? 冒険の時には、ふだんの人間関係とは違ってくるのです。

「修学旅行にちゃんと行くことができたのだから、学校くらい行けるはずでしょ……」と、言わないでください。

2013年02月27日

相談するのは、ストレスとの良いつきあい方

あなたは、タイトルのように考えていらっしゃいますか? 私にしてみたら、9割以上の人がそう考えていると思うのですが、それはカウンセラーなどしているからでしょうか。

人間、生きている限り色んなことがあるものです。でも困ったことがあったり、辛くなってしまったら、家族や友人に相談をする。あるいはだれでも良いから愚痴を聴いてもらう。知恵を持っていそうな人、解決できそうな人を選んで相談をする。そういうことについて、中高生はあまりポジティブなイメージをもっていないようです。

先日も高校でストレス・マネジメントの話をする中で、「相談するのは、ストレスとのよいつきあい方だと思いますか?」と手を挙げてもらったら、目測ですが1年生では1割、2年生では4割くらいの子が手を挙げてくれました。

「もしかしたら、話を聴いてもらえないかもしれない」
「お説教されたり、バカにされたら嫌だ」
「相談して、秘密がみんなに伝わったらどうしよう?」

そんな心配が、あるのかもしれません。それにしても……。

2012年07月17日

スクールカウンセラーよりも、教員の緊急派遣を

毎日のように、大津市のいじめ自殺事件について報道されています。陰惨ないじめの実態、いじめを知りながら有効な手を打たなかった教員、責任回避の発言に終始する校長、一貫性なく思いつきで動く教育長と市長、被害届を三回にわたって受理しなかった警察……。

とくに警察が強制捜査に入ったことは、教育関係者にとって衝撃だったのではないでしょうか。うがった見方をすれば、「学校が悪い」ことにして、被害届の不受理を正当化しようとする動きなのかもしれません。しかし犯罪の域に達している事件が起きているのであれば、警察が捜査に入るのはむしろ当たり前のことだと考えます。

報道されているようないじめが、もし学校以外の場所で、他校の生徒によって行なわれたのであれば、警察はすぐに被害届を受理して捜査にとりかかたのではないでしょうか。でも校内で起きたこととなると、「子どもどうしの悪ふざけだろう」と甘く見てしまう、そんな背景があるのではないでしょうか。

警察がすぐに学校の中に入ってこないのは、「学校では先生たちが生徒をしっかり管理しているから、そこいらの道ばたよりも安全な場所である」との思いこみが、学校にも警察にもあるからではないでしょうか。しかし実際は「そこいらの道ばた」よりもはるかに危険な場所であって、犯罪が「ふざけ」や「けんか」として片づけられていたのです。

校長が「けんかと思っていた」と発言しているのは、どう見てもおかしいです。そんな子どもじみた言い訳をしてしまうのは、正常な判断力をもっているとは思えません。もともとそんな人だったら、とても教員や、まして校長まで務まるとは考えにくいです。事件のショックで茫然自失の状態になっていると考えた方が、妥当ではないでしょうか。変なことを言えばバッシングにさらされるし、生徒や保護者たちの心も離れて行って、どんどん悪い方に向かって行きそうです。

これから生徒たちに、アンケートや事情聴取が行なわれるので、スクールカウンセラーが2名、「心のケア」のために、緊急派遣されることになったそうです。もし派遣するのなら、調査をした後のケアに当たるよりも、調査の仕方を助言できるような人を派遣して、配慮の行き届いた調査にするべきでしょう。そもそもPTSDの可能性はない事件なので、「スクールカウンセラーに心のケアにあたらせる」のは、どうも腑に落ちない感じです。

でも私としてはそんなことよりも、学校がとても混乱して、無政府状態になっているのではないかと案じています。校長は判断ができないだろうし、亡くなった生徒の担任もとても授業をするどころではないのではと思います。今年の3月に転出したばかりで学校の事情がよく分っている人が望ましいですが、ともかく教員を何人か緊急派遣して、学校本来の教育活動が行なわれるように配慮するのが良いと思います。生徒にも教員にも、この事件の二次被害が広がっていくことがないように。

2012年05月31日

課題の魔法

高校のスクールカウンセリングで、何回かこのようなケースに出会っています。

他の県ではどうか知りませんが、岩手県の進学校では、大量の課題が毎日出されます。運動部に入っている生徒は、とてもではないが全部やりきることができません。答を丸写ししたり、全部終わらなくても出したり、あるいは全然やらなかったり、出さなかったり。これが実態ではないでしょうか。

ところがアスペルガー症候群の傾向があるような生徒は、ここでつまづいてしまうことがあります。「答を写したのでは、勉強したことにならない」と考えて、あくまで自分の力でやろうとします。「出している人は全部終わっているに違いない」とか、「みんな出している」と思うようです。これでは時間がいくらあっても、足りません。親が「そんなに無理してやらなくたって、良いんじゃないの?」と言っても、受け入れません。課題を出せないなら、学校を休むしかないと考える生徒もいます。

「みんな、どんな魔法を使って課題をしているんだろう」と、真剣に悩むようです。

友だちの話の輪の中に入らないので、他の人たちが課題をどう片づけているのか、情報を得ることがないようです。また自分から聞くことも、ありません。そして学校を休むようになってから、先生が「無理をしてやらなくても良い」とか、「自分のできるところまでやれば良い」という指導をしても、ダメなのです。彼らは何問とか、何ページまでとか、数で指示されればわかりますが、「自分のできるところまで」と言われてもそれをイメージすることができません。

こんなことで不登校になったり、学校を辞める生徒がいることを、当の高校教師たちは認識しているのでしょうか? そもそも、大量の課題を出すことは、生徒の学力向上につながっているのでしょうか? 「させられる」のは楽しくないし、学ぶ喜びを奪う行為ではないかと思うのですが、どうなんでしょう。「自分が生徒だったら、こんな風に勉強したい」と想像力を働かせる教師が、増えて欲しいものです。

2011年08月28日

宿題は?

夏休みが終わって、2学期が始まりました。そう、岩手県は一関市などの県南部は8月末まで夏休みがあるのですが、奥州市から北の方は夏休みが短いのです。そのかわりに冬休みが長いのですが、子どもたちにはあんまり支持されてはいないようです。温暖化で気候も変化しているので、そろそろ見直しても良いのではないかと思うのですが……。

さて長期休暇明けの職員室の風物詩と言えば、「宿題を出さない子へのお説教」です。私もちゃんと出せる方ではなかったので、「今度ばかりは許さんぞ」の剣幕で怒られている子が近くにいたりすると、自分が怒られているような気になってきます。ADHDの子がかなりの確率で含まれていると思うと、むやみに怒って説教して反省させる指導法は得策ではないし、逆効果になると思うのですが……。先生方へ。職員室に呼びつける前に、「うちのクラスにこういう子がいるんですけど」とスクールカウンセラーに声をかけてくださいな。

2011年04月15日

お礼参り

新しい年度を迎えて、中学校にスクールカウンセラーに行き始めました。
私が行っているのは岩手県でも内陸部の学校で、いわゆる被災地にはあたりません。しかし震災の影響で眠れないとか、食欲がない子が多いようです。県の教育委員会でも本腰を入れて、生徒たちの「心の健康教育」(ストレス・マネジメント)に取り組むようです。

今日はほっとするような、うれしいことがありました。お昼休みに、高校に入ったばかりの卒業生が職員室に顔を出してくれました。入学してきた早々から野生児ぶりを発揮して、スカートの丈を注意されたりすると、「うっせー、バカやろー」くらいは平気で言っていたあの娘が、どこから見ても可愛い女子高生です。なかなか授業に入れないこともあったけど、見事に志望校に合格しました。「おー、立派になったなあ……」と口々に言われて、はにかみながら先生の間を回っていました。

子どもは、希望です。

2010年12月23日

中学生は……

中学校も冬休みに入って、ひと息つくことになります。スクールカウンセラーの仕事を始めて12年になるのですが、初めの3年間は高校に行っていました。私はずっと大人の病院に勤めてきたので、臨床で中学生以下の子どもに会うことはほとんどありませんでした。ラッキーだったと思います。

「スクールカウンセラーをまず中学校に配置しよう」という方針が文科省から打ち出されて、派遣先が中学校に変わった時には、「ちょっと困ったことになった」と思いました。私にしてみたら、思春期の中学生は一番複雑でデリケート。「取り扱い注意」のイメージがありました。高校生でなかったら、小学生の可愛いくて良いのだけれど……などとも思いました。そもそも自分自身の中学校時代があまり楽しいものではなかったので、そんなことも引きずっていたのかもしれません。

高校生は自分から申し込んで相談に来てくれますが、中学生はなかなか自発的に相談に来てくれません。ほとんどは担任や保健室の先生から勧められて、相談室に渋々?やってきます。これは中学生は気持を言葉にしたり、内省したりする力に個人差が大きいし、相談室などという「特殊な所」に行く「特殊な生徒」に見られたくないと言う意識も強いからだと思います。

中学校に何年も行って、やっと中学生に慣れて来たような感じがします。今では彼らは「可愛い」し、「取り扱い注意」でもありません。

2010年09月08日

虐待の傷跡

中学校や高校で、解離性の障害が疑われるケースに出会うことがあります。生徒は「友だちを叩いたそうだけど、その場面を全く憶えていないので、反省のしようもない」とか、「知らない間にリストカットをしていたなどと」言います。あるいは先生が「その場その場で都合の良いことを言うので、友だちとトラブルが絶えない」とか、「場面によって顔つきががらりと違う」などと相談してきます。

ご本人はいたってまじめに生活しているのですが、本当に記憶にないので困ってしまうし、不安にもなります。たとえば「ゴメンね私は忘れっぽいからとボケて、前に何を言ったか教えてもらうようにしよう」などと、校内の適応が良くなるように助言をすることにしています。学校は治療機関ではないので、心理療法によって根本的な解決を図るようなことはしません。

彼らは精神科を受診すれば、解離性同一性障害と診断される可能性があります。でも親が病院に連れて行くことは、期待でないケースがほとんどです。まず過去に本人を虐待していたとか、あるいは現在でも虐待している可能性が高い。経済的に苦しいということも、ままあります。生徒が虐待されているとしたら、親に受診を勧めるよりも、児童相談所に通報する方が先になります。

虐待されて解離を起こしている生徒、おそらくは自分も虐待されてきて子どもを虐待してきた親、そしてその一家が置かれている厳しい環境などを思うと、彼らに対して何ができるのかという気持にもなります。地域で人と人のつながりが希薄になっていることが、虐待が増えている一因でしょう。古今亭志ん生が米や醤油や電気代を融通しあって生きていた、「なめくじ長屋」を語っていますが、いくら貧しくても虐待などはなかったと思います。虐待は人ごとではなく、心のゆとりをなくして弱い者にしわ寄せをしていないか、ひとりひとりが考えるべき問題だと思います。

2010年05月22日

行く先々の……

 NHKの「美の壺」を見ていたら、幇間(ほうかん、たいこもち)が取り上げられていました。落語好きは「鰻の幇間」(うなぎのたいこ、八代目桂文楽は良いですね)に登場するような、旦那に取り入ってゴチになるしか能がないような人物を思い浮かべますが、本物は諸芸に通じて座を盛り上げる、いきな芸人なのです。やはり男だけに芸者衆よりも生き残りは厳しいと思いますが、現役の方が出ていました。そこで紹介されていたのが、

     芸人に上手も下手もなかりけり
     行く先々の水に合わねば

 やはり、そうですよね。「あのスクールカウンセラーは、ちょっとなあ……」みたいな話を小耳にはさむことがあります。「水に合う」かどうかを無視して、「上手」を見せつけようとする人がそう言われてしまうようです。それは不安の裏返し、とも言えます。水に合うようにするには、水を読む力とともに、自分を失わない強さも必要ということですね。

2009年10月12日

学校は寒い

 2学期もたけなわ、文化祭の時期を迎えました。今年は寒くなるのが早いように感じますが、いずれこちらでは11月ともなれば朝晩は暖房が欲しくなります。スクールカウンセラーをしていると、暖房が入る前のこの時期が一番寒いのです。

 教室は子どもたちの人熱と言うか、ホルモンむんむんで血の気の多い人たちが沢山いるので、それで結構暖かいのです。職員室もたいがいは日が当たるので、暖房は入っていなくてもそこそこ暖かく感じます。そしてほとんどの学校の相談室は、北向きの日の当たらない部屋で冷え切っています。

 寒いのを気にするのは、私が寒がりなだけではありません。カウンセリングに寒い部屋は、不向きなのです。私たちは寒くなると、身体を縮めて寒さから身を守ろうとします。手足が冷えて不快になり、そちらに気を取られます。寒さで身体が縮んで固まってしまったら、心も防衛的になって、カウンセリングでリラックスして気持を話すのは難しくなるのです。

 こっそり暖房を入れたくなる季節です。

2009年07月22日

日食観察会

 今日は46年ぶりに日本で皆既日食が見られるとのことで、前々からニュースになっていました。とは言っても皆既になるのは一躍有名になったトカラ列島の悪石島などで、岩手県は60%ほどの部分日食が見られることになっていました。

 私がスクールカウンセラーとして勤務している中学校では、3時間目が「全校理科」の時間となり、生徒たちが校庭に集まりました。理科の先生が拡声器で説明をして日食観察用のゴーグルを配布されましたが、空はどんより曇っていて太陽がどの辺りにあるかも見当がつきません。私もちょっと生徒から借りて見ましたが、黒いだけで何も見えませんでした。

 「残念でした」と体育館に集まって、1999年のルーマニアの皆既日食を取材した番組のビデオを見ました。皆既日食の映像だけではなく、メカニズムも分かりやすく解説されていて、さすが理科の先生、準備に怠りがありませんでした。