2009年07月06日

させられ体験

 「させられ体験」とは、本来は統合失調症の患者さんにみられる体験の様式で、主体的に活動している意識が希薄で、自分以外の何者かによって操られているように感じることです。それとは全く次元の違う話ですが、やはり「させられ体験」と言いたくなってしまうことがありました。

 私は新潟大学の教育学部の分校に附属する、小・中学校に通いました。田舎のこととて、当時は(今でもおそらく)別にエリートコースでも何でもありませんでした。父親は他界しているので、どういうつもりで附属に入れたのか、今では知ることもできません。私は地域の友だちができなかったので、もし自分に子どもができたら、普通の小中学校に入れようと思ってきました。

 それはともかく、そういう学校なので心理学の被験者になったこともありました。小学生の時には太いビーカーに入った水を細いビーカーに移して、「さて水の量は同じかな、増えたかな、減ったかな?」とか。これはピアジェの有名な実験ですね。

 さて私の「させられ体験」は、構成的グループ・エンカウンターというものです。あれに非常に熱心な先生が担任だったのですが、研究的な意味合いもあったのかもしれません。もちろん「これから構成的グループ・エンカウンターをします」と言われたわけではなく、仕事に就いてから「あれがそうだったんだな」と思うようになったのです。

 「友だちの良いところをみんなに紹介しよう」とか、まあとにかく色々とありました。その度に「何でこんなことをさせられるんだろう」と思いつつ、煮え切らないまま流れに乗ってやっていた自分がいたように思います。先生が「良い」ことをしようとしているのは分かるのだけれど、でも自分のリアルな感情とずれていることを「させられる」時間でした。「何でこんなことをするのか、意味がわかりません」とでも言える子どもだったら良かったのですが、でも言ったらあの先生は怒ったでしょうね。

 よくよく考えてみれば、私があんな風に感じていたからと言って、構成的グループ・エンカウンターに効果がなかったとは言えません。クラス全体の雰囲気が、良い感じになっていたのかもしれません。また当時の担任のやり方が、上手でなかったのかもしれません。私が目的意識をもてなかったのは、おそらくは導入がきちんとされていなかったのでしょう。それでもあの「させられ体験」はなかなか抜け切れなくて、「構成的グループ・エンカウンター」と聞くと腰が引けてしまうのでした。

2009年05月28日

トッカータとフーガ ニ短調

 とある中学校の相談室は、南側がそっくり窓になっています。ただし渡り廊下から丸見えなので、窓にはブラインドがみっちり下がっています。「ドラマに出てくる、警察の取り調べ室みたいでしょ。でもカツ丼は、出てきません」などと言うと、笑ってくれる人もいます。

 校長先生は「すみませんねえ、狭い部屋で……」とおっしゃってくださいますが、北向きで寒くてカビ臭い相談室もあるので、陽があたるだけでも大いにありがたいことです。広すぎる相談室はかえって落ちつかないので、この狭さで良いのです。上出来です。ただ玉にきずなのが……、向かい側の棟に音楽室があるのです。窓を開ける季節になると、その音楽がとてもよく聴こえてきます。棟と棟の間を音が反射して、増幅されているような感じもします。教室に入れない生徒がカウンセリングに来て、自分のクラスの歌声だと分かったら、ちょっと複雑な気持になるかもしれないな、などと思うこともあります。
 
 この前はカウンセリング中に嘉門達夫さんの「タラリ〜、鼻から牛乳」でおなじみ?(古いか)の、ヨハン・セバスチャン・バッハ先生の手になるオルガン曲、「トッカータとフーガ ニ短調」が高らかに響いてきて、これにはちょっとまいりました。話している人のテンポが変わって思考がぶれたのが感じられたし、私は私で「決定的なことが話されたり、息詰まるような沈黙の時にこれが流れたら……」とヘンな想像までしてしまいました。
 
 新しく相談室を作る学校があったら、ぜひ静かで日当たりのよい場所にお願いしたいものです。場所的に無理なら、遮音性の高いペアグラスや防音ドア、冷暖房などで静けさを確保できると思います。

2009年04月14日

お笑いといじめ

信田さよ子BLOGの4月7日「桜散る」より、引用させていただきます。

テレビ業界の不況の影響で、ギャラの安いお笑いタレントが席巻することになっているが、小中学生の人気には理由があると思う。
学校集団におけるサバイバル競争は激しくなるばかりだが、そこをかいくぐっていくために必要なスキルはお笑いがすべて与えてくれるのではないだろうか。
一部の論者の言うように、お笑いがいじめのテクを与えているというのは確かだろう。あのいじり方はやはりぎりぎりの危なさを秘めていると思う。
でもそのいっぽう、いじられても「痛い」対応をしないテクも与えてくれているのだ。
突出しないこと、かといって空気は確実に読むこと、微妙な位置でスケープゴートにならないでセーフになること、先手必勝とばかりにいじる対象をみつけること、いじられても痛くない反応をするだけのスキルをいくつか持っていること。
お笑いと一言でいうが、過酷な同質集団の中を生きていくための豊かなスキル、モデル、みせかけ術などに満ちているのだ。

 なるほどなー、とうなづいてしまいました。小中学生がいじめテク、あるいはいじめられ対策テクを磨くために、お笑い番組にかじりついているとは……。でも単純に「面白い」とか、「スカッとする」で見ている子も大勢いる、と信じたいところです。
 
 文字を青くしたところの話は、教室にいられなくなって別室に来ているような生徒から聞くことがあります。本当にこの通りです。やはり女の子の方が精密で深刻で、聴いている方が息苦しくなってきます。こういうのは「都会の話」ではなくて、大奥なみ?のスキルを東北の女子中学生たちも駆使しているのです。それもメールなんてものがからんでくると、さらに厄介になります。

 人を刺す笑いもあるけど、刺さないで済むための笑いもあります。こっちの方が普及してくれると良いんですが……。 

2009年04月03日

赤飯を炊かないで

 もうすぐ、新学期が始まります。私は不登校の子どもたちが、気になっています。彼らは「○年生になったら、学校に行くよ」とか「高校に入ったら、学校に行くよ」と言うことが、多いのです。親へのリップサービスで言う子もいるでしょうが、本気でそう考えている子もいます。親の方も、落ち着きません。今度こそ行ってくれるだろうか、またダメなんだろうかと、祈るような気持で過ごしている方もいらっしゃるかと思います。

 「うちの子は、4月からは行くと言っているんですが、本当に行くんでしょうかねえ。もし行ったら、どう接したら良いでしょうか」と聞いてこられる保護者の方には、こんなことを言うことがあります。「行ったからって、大喜びはしないでください。赤飯を炊いたり、ケーキを買ってきてはダメですよ。反対に休んでも、がっかりしないでください」

 子どもにとっては自分が登校するかどうかで、家族一同が舞い上がったり、がっかりするのは、けっこうしんどいことです。私としては、そういう事態を避けたいのです。でも「赤飯」の言葉に、ピリピリしていた表情がゆるんで笑う人が多いのですよ。いい顔をなさいます。

 それは「赤飯を炊くなんて、そんなことするわけないじゃない」と言う笑いかもしれません。でももしかしたらわが子の初節句に赤飯を炊いたり、誕生日を祝ってケーキを買ってきた記憶に、つながるのかもしれません。赤ちゃんの健やかな成長を祈った日々を思い出したら、お子さんへの接し方も柔らくなることでしょう。そこまで期待する私は、欲張りでしょうか。

2009年02月28日

春休み

 今日でスクールカウンセラーの仕事が、終わりました。1年間で35回の予算が、決められているのです。もちろん反省点もあるのですが、まずは事故なくつとめることができて、ほっとしています。
 考えてみれば、もう10年間もスクールカウンセリングに関わっています。若い頃は自分が学校で仕事をするなど、想像もしていませんでした。ふた昔前には面接室にこもって心理テストや面接、あるいはグループ・ワークに明け暮れるのが心理の仕事でした。そのさらにひと昔前には、教員だった父親に反発していたし、学校にもあまり良い思い出もなかったので、教育や学校から距離をとりたかったのです。それが今では、学校で先生方と一緒に仕事をしています。父親はとうに亡くなっていますが、スクールカウンセリングには縁のようなものを感じます。