2017年06月28日

ザ・コンサルタント

 原題は The accountant (会計士)です。主人公は数を扱うことにかけては天才で、ヤバい金の資金洗浄など、裏社会の会計処理を引き受けています。それでも消されずに生きているのは、ゴルゴ13なみの戦闘能力を身に着けているからです。まさに鬼に金棒ですが、泣きどころもあります。人への関わり方がわからない、何かに取りかかると中断ができない、身体の実在感をもてない、衝動のコントロールができない、行動が型にはまっている、不器用な言葉づかいなど、など。彼は困っている(らしい)ので障害と言えば障害なのですが、それを凌駕する能力で世の中を渡っているわけです。誇張されているきらいはありますが、自閉症スペクトラムの特徴をよくとらえていて感心しました。

 その一方で暴力が問題解決の手段として野放しになっているのが、いかにもハリウッド映画で残念なところです。子どものころ、テレビで西部劇を見ていた父親が「ほら、すぐピストルで殺すだろ。アメリカ人は野蛮だ!」といささかムキになっていたのを思い出します。日本の映画でもチャンバラや撃ち合いはあるし、たかが娯楽にムキにならなくても良いのですが、ここまで派手にやられるとちょっとなあという感じです。「目的が正しければ、手段は選ばない」がこれまで繰り返されてきた戦争の論理で、広島・長崎の原爆も、北朝鮮のミサイルも、イスラム国のテロ攻撃も同じことでしょう。「間違った手段がとられるときは、目的も間違っている」のですよ。わかっていますか? トランプさんに、プーチンさんに、アベさんも……。 
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2016年09月10日

の・ようなもの のようなもの

なかなかいい加減で、ナイスなタイトルですね。森田芳光監督が亡くなってから、森田組のスタッフ・キャストが集まって、「の・ようなもの」の35年後を描いた作品です。私は「の・ようなもの」は見ていないのですが、こちら単体で十分に楽しめる、よい映画だと思いました。

ひとことで言ってしまえば、落語一門を舞台にしたコメディです。大昔に一門から突然に行方をくらました、「志ん魚」(しんとと)を一門会に引っ張り出すべく、マツヤマケンイチ演じる志ん田(しんでん)が奮闘します。この志ん魚さん、ふだんは誰にでもフレンドリーかつ好き勝手な言葉をかけるのですが、高座に上がると客の視線が脳に刺さるように感じて(一言もそんなことは言ってませんが、私が勝手にそう思うだけです)、何も言えなくなってしまうのです。客から良い具合にヤジられて、やっと声を発することができる始末です。一門の兄弟子たちが、「オレたちは、あいつを対人恐怖症ってやつにしたかもしれない」と責任を感じていました。

高座に上がって「……暑いね」とひと言つぶやくだけで、客がドッと笑う。そんな噺家は客を「呑んでいる」のだと思います。客席に目を向けた瞬間に、自分の世界に引き込んでしまうのですね。ところが志ん魚さんのように(志ん魚さんは対人恐怖症ではないと思います)、客に呑まれてしまっている噺家もいます。だれとは言わないけど、寄席で目の当たりにして「あ〜、呑まれちゃってるな」と、ちょっと気の毒に思ったことがありました。おそらくは上手くやろう、受けてやろうと思うあまりに、自分を失くしてしまうのですね。

かたや志ん田は大卒の脱サラ組で、四角四面の性格です。額縁がナナメに曲がっていれば、直さずにはいられない。「小学生が作文を読んでいる」ような、ちっとも面白くない落語をします。昔は弟子入りしようと師匠の門を叩けば、「お前さん、道楽は何をしなさったね」と聞かれたそうです。道楽とは早い話が飲む、打つ、買うの類で、たいがいはそれで身を持ち崩して、食い詰めたような人が噺家になったのでしょうね。食っていくのが大変だから、よほど酔狂な人じゃないと噺家などには、ならなかった。そういう人は失くすものがないし、修行にも身が入ったのでしょう。破れかぶれの凄みが、笑いにつながりもする。大学を卒業して堅気に生きて来た志ん田などは、ファンキー成分に欠けているわけです。それが志ん魚と一緒に暮らしているうちに、彼のファンキー成分を吸収していきます。人間、こんなに簡単に変わるのだったら、苦労はないんだけど……。まあ映画ですから、楽しんでください。
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2016年01月05日

セッション

ジャズの大学(モデルはバークリー?)のドラマーが主人公で、鬼のような教授との血みどろの確執が描かれていました。サド・マゾヒスティックな関係性はある意味、安定しています。「言うことを聞かせる」−「言うことを聞く」だったり、「いじめる」−「いじめられる」だったりと、固定しています。そのため学校でも、会社でも、家庭でもと、あちこちでサド・マゾヒスティックな関係性が重宝されるのかもしれません。対等な関係性の方が双方の成長を育むと思いますが、こちらは簡単ではありません。

主人公はそのサド・マゾヒスティックな関係性の中で、ドラマーとしての力をつけて立場を手に入れます。自己愛むきだしで傲慢にふるまったり、ガールフレンドを出世の邪魔とばかりに切り捨てていました。でも破綻して打ちひしがれたこと、父親がその痛みを分かち合ってくれたことが、彼の目を覚ましたように思いました。主人公は大学を退学になりましたが、「もうこんな生徒を出さないために」と教授の悪行を証言しました。その教授が退屈なピアノ弾き?になっているのをライブハウスの看板で見つけて、ふらっと入ってしまったのは罪責感からでしょうか。仕返しを企む教授よりは、はるかに大人になっています。

映画として面白く観ることができたのは、ひとえにJ.K.シモンズの怪演によるものです。この映画の監督は高校時代にジャズバンドのドラマーだったそうですが、そりゃホンマカイナと思うような噴飯ものの場面が満載でした。なぜゆえ譜めくり(それもドラムだけ)がつくの?とか、まあいっぱいあって書ききれないので列挙はやめておきますが、その中で一番の間違いはチャーリー・パーカーのエピソードに関することでしょうか。

ジョー・ジョーンズがシンバルのネジをゆるめて落とした(投げたのではない)のは、パーカーが下手くそ(バンドマン用語では「イモ」)だったからではありません。調子こいて(もしかしておクスリ?)迷子になって2小節先を吹きまくり、客が騒いでもジョー・ジョーンズがシンバルのカップを叩いても気がつかなかったのだそうです。その場には楽しげな笑いがあっただけで、鬼の形相のドラマーがいたわけではないでしょう。もっともサド教授が勝手に話を作り変えていた、という設定だったかもしれませんが。

いちファンとしては、ジャズがこんな世界だと思われるのは嫌だし、できたらスポーツとかを舞台に映画を作ってもらいたかったです。
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2015年02月04日

ツレがうつになりまして

ご存知の方も多いと思いますが、原作はマンガです。テレビドラマ化されて、そして映画になりました。サラリーマンの夫がうつ病になり、診断を受けて回復に向うまでのプロセスが描かれています。全体としての印象は患者さんがどんな体験をするのかや治療の進め方、家族としての見守り方、周囲からのNG発言まで網羅されていて、啓蒙的な意味でも良くできた作品だと思います。監修をされた五十嵐良雄先生の力も、大きかったことと思います。

「うつ病は心のカゼ」というセリフが登場しますが、この言葉には功罪があるように思います。精神疾患に偏見を持たずに受診したり、周囲の人々が見守ることはとても大切なことで、その意味では「心のカゼ」は良いと思うのです。でも命に別状はなく、安静にしていれば跡形もなく完治するカゼのイメージと、そぐわない現実もあることは確かです。治っていくのに時間がかかる人もいますし、自殺を試みる人もいます。治療では心理的・社会的な要因が濃厚な患者さんにも、抗うつ薬の処方のみにとどまっていることがとても多いと思います。「心のカゼ」は、製薬会社が流行らせたい言葉ではないかな、と思ってしまいます。

ところで主人公の夫婦はイグアナを可愛がっていて、そこに途中から子ガメも加わります。いずれも爬虫類ですが、彼らはうつ病にならないでしょうね。爬虫類は変温動物なので、気温が良ければ活動して、寒くなれば動かなくなるしかありません。環境に大きく依存した生活を送っているので、無理に頑張ることもないし、頑張っても仕方ないし、頑張れない自分を責めることもない。でも私たちほ乳類は気温がどうであれ、体温を一定に保って同じレベルで行動しています。レベルを保つのが当り前になってしまっていて、保てなくなったときに反応を起こすのですね。そうかと言って諸行無常の悟りを開くのは私のような凡人には難しく、悪あがき?の毎日です。
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2014年05月18日

メッセンジャー

イスラエルのオーレン・ムーバーマンが監督した作品。メッセンジャーとは通告官のことで、戦死した兵士の家族を訪ねて、事実と弔意を伝える役割を担っています。陸軍長官の代理として、正装の軍服でマスメディアよりも早くかけつけなくてはなりません。

主人公のウィルはイラクで戦友を救って負傷した「英雄」で、帰国してからこの役割を命じられました。大尉と組んで遺族のもとを訪れるのですが罵倒されたり、悲嘆をぶつけられたりで、決してきれいな儀式にはなりません。そんな中、「大変なお仕事ですね」と手を握ってくれた未亡人に、ウィルは惹かれていきます。また「接触してはならない」という規則を破って、息子を失って泣き崩れる夫婦をハグしてしまいます。

大尉はそんなウィルを厳しく叱責するのですが、ウィルは「俺だって人間だ、日向ぼっこをしていたんじゃない、闘ってきたんだ」と聞き入れようとしません。休暇に二人で出かけて、ウィルのイラクでの体験を聞いた大尉は、号泣します。ウィルが事実を話したことで、ウィルの過酷な状況を兵士として共感して、いたたまれなくなってしまったのです。

ネットの書きこみを見ると「公私混同するような人に告知されたくない」とか、「主人公は甘い」とか、批判的な意見を目にします。私の見方ですが、監督はウィルを理想的なメッセンジャーとして描いたつもりはないでしょう。決まり通りに役割をこなすことができない姿を呈示して、その背後にあるサバイバーズ・ギルティ(生き残った者の罪悪感)とトラウマ障害を描いているのでしょう。おそらくウィルは兵士の死を告げる度に、イラクでの体験がよみがえってきて、「何で自分が生きてしまったのか」と自分を責めなくてはいけなかったのです。

「えひめ丸」の事件を、ご記憶でしょうか。高校生たちを乗せた実習船が、アメリカの原潜に激突されて沈没して、大勢がなくなりました。助かった生徒たちの中に、助かったことを喜ぶ人は一人もいなかったそうです。「もし自分が、下のベッドの子に声をかけていれば、助かったかもしれない……」など、客観的に見れば不合理な思考にとらわれて、自分を責め続けたそうです。そこから回復して自分のペースで生活できるまでに、何年もかかったらしいです。

この任務を命じられたときに、ウィルは「自分は悲嘆カウンセリングを受けていません」と上官に答えていました。サバイバーズ・ギルティを乗り越えるための援助を受けていないと言ったのにもかかわらず、その上官は「この任務には強い人間が必要だ。君は英雄だから、必ずできる」と、とりつく島もありませんでした。この上官の無理解が、ウィルを苦しめたことになりました。
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2014年03月28日

きっと、うまくいく

インドの映画大国ぶりは、知られるようになって来ましたね。「ボリウッド」(ボンベイ+ハリウッド)と呼ばれる、ムンバイを中心にした映画産業の規模は、世界最大なんだそうです。とくにミュージカルでなくても、歌や踊りが唐突に入るのがインド映画のお約束のようで、この映画もちゃんと?入っています。そのため、長いです。

原題はThree Idiotsで、直訳すれば三人のお馬鹿さん。インドの猛烈な工科大学を舞台にしたコメディタッチの映画ですが、ちょっと大げさに言えば人生の真実が含まれています。「きっと、うまくいく」は、主人公の故郷で夜回りのおじさんが唱えていた言葉です。

この大学の学長が、競争主義の権化のような人物です。彼にとっては競争に勝つことが全てなんだけど、でも何のために競争するのか、そもそも競争が必要なのかということは欠落しています。そして人の気持に共感することも、ない。言ってみれば、非常に自己愛的な人物です。この映画では彼の価値感の押しつけが、「ゴーカン」としてからかわれて、はね返されていきます。まだご覧になっていない方は、ぜひ。DVDが出ています。
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2014年01月22日

永遠の0

この映画を見ていて、思い浮かんだことが色々ありました。
私は保育園から、たしか小学校3年生までだったか、「脱脂粉乳」をお昼に飲んでいました。いまのスキムミルクは本当に美味しくなりましたが、当時のものはかなり臭いがきつかったし、上に幕が張っていたりして、なかなかすっと飲める代物ではありませんでした。だからと言って後回しにすると、余計にまずくなる。それに当時は「お残しは許しまへん」でしたから、半べそをかきながらいつまでも脱脂粉乳と格闘する子もいました。

後で知ったことですが、あれは敗戦国の日本に、アメリカが恵んでくれたものでした。私たちはそのおかげで、大きくなれたということです。それに街角やお花見の会場などにいた、「傷痍軍人」。ホータイでグルグル巻きになった人がむしろの上で、アコーディオンやハーモニカで軍歌をやるんですね。中には缶にお金を入れていく人もいましたが、じっと見ていると親からは「見ちゃいけません」みたいに言われました。

親戚や近所には戦争に行って来たり、シベリアに抑留された人がいました。高校の数学教師はもと飛行機乗りの特攻崩れのような人でした。彼らからは、戦争の話を聞くこともありました。特攻崩れの先生は、優秀な教員だったとは思いますが、かなり屈折したところのある人でした。何十年経っても人格の奥深くまで刻印される「特攻隊」の罪深さを、高校生ながらに感じました。

この前に研修会の講師に来て下さった先生は、小学生の時に集団疎開して、何でも食べたそうです。芋のつるとか、アブラゼミとか。

映画の中でも言っていましたが、戦時中や戦後のことを知っている人たちは、どんどん少なくなっています。今からでも、遅くありません。聞けることがあったら、ぜひ聞いておきたいものです。
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2013年09月30日

サイコ

1960年に制作された、アルフレッド・ヒッチコックの名作です。ホラーとか、どうもこの手の映画は苦手なので今まで見ていませんでした。たまたま、NHKのBSで放映したので録画しておきました。とは言え、意を決して見るまでにちょっと時間がかかりました。何しろ女優のジャネット・リーはこのカットで「絶叫クイーン」の名を確立したとかで、それは恐ろしい映画だと思っていたもので……。

psycho.jpg

でもいざ見たら、それほど怖くはなかったです(^^;)。ストーリーも予想していた通りに運んでいったし……。

ネタバレになってしまうので書けませんが、犯人の心理と言うか精神状態が、どうも腑に落ちないですね。ちょっと説明がつかないな、と感じてしまいます。

映画としては文句なく面白いし、まだご覧になっていない方はぜひどうぞ。ヒッチコックは「カラーで撮ると凄惨になる」からと、あえてモノクロで撮影したそうです。でもカラーで撮っていたなら、何しろ1960年なので、粒子も粗くて色も悪いはずです。モノクロで精緻に撮影してくれたのが、ありがたいですね。音楽もかなりの不気味さで、凄みがあります。
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2013年04月10日

ローマ法王の休日

原題の「Habemus Papam」(アベムス・パパム)は、ラテン語で「教皇が決まった」という意味だとか。ちょっと古い日本人で知らない人はいない映画、オードリー・ヘップバーンの圧倒的人気にあやかった邦題です。しかし「ローマの休日」とは違って、出てくるのはジイさんの枢機卿ばっかりです。恋も痛快なハプニングもハッピーエンドもなく、生きることへの問いかけと乾いた笑い、そしてパロディが詰め込まれています。傑作だと思う人は思うけど、退屈だと思う人の方が多いのではないでしょうか。

ナンニ・モレッティ監督が自ら演じる精神分析医が、なかなか良い味を出していました。聖書に書いてあることは「うつ病そのもの」と枢機卿たちの前で演説をしたり、うつやら何やらで薬漬けになっている枢機卿たちにバレーボールをさせて元気にしたり。別れた元妻も精神分析医で、何でもかんでも乳児期の「愛情欠乏症候群」にしてしまうのも、ひとつの典型イメージ(現実は違うと思うけど)のパロディですね。

先頃に健康上の理由で退位された法王はかなり珍しい例とのことで、亡くなるまで世界中のカリスマであり続けるのが法王です。アメリカの大統領よりも、きついんじゃないでしょうか。やらなくちゃいけないのは、わかっている。でも自分には、とてもできそうもない。神様、お許しください……のまんまで結末を迎える、救いのない映画です。でも、私は面白いと思いました。

それにしても、マジメすぎるのも困りものです。マジメ過ぎて自分には無理だと考えて、前に進むことができない。そして周りの期待に応えない自分に、困ってしまっています。精神分析医が見抜いた通り、自己愛に浸りきっているのですが、すっかりふさぎ込んでいるので周りが何を言っても聞くはずもない。モレッティ監督は「もっとみんな元気に、いい加減に生きようよ」と言っているように感じます。
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2012年02月11日

タイマグラばあちゃん

岩手県の早池峰山麓に、タイマグラと呼ばれる地域があります。私も宮古への往復で何度か通り抜けたことがあるのですが、それはもうすごい山の中、ところどころ待避所がもうけてあるような一車線の山道が20kmも続くところにあります。ちなみにこの道、冬は封鎖されます。昭和の終わりになってやっとであっても、ここに電気や電話が引かれたこと自体、ちょっとにわかには信じられないような場所です。

開拓された集落も老夫婦の向田さんだけになり、自給自足のような生活をしていました。電気が通り、山荘を開くために若い奥畑さんが隣に引っ越してきて、結婚して長男が生まれました。90歳を越えていたお爺さんは木が枯れるように亡くなり、お婆さんも心臓を悪くして山を下って亡くなりました。奥畑さんたちは、お婆さんから習った味噌造りを受け継いでいきます。そんな様子を、淡々と描いたドキュメンタリー映画でした。

時には優しく、時には厳しい自然の中で起きることを受け入れて、百姓仕事に精を出す毎日。向田さん夫婦は察するに、世間一般で言うレジャーや贅沢、趣味などには無縁の生活だったと思います。でも、とても満たされていたのではないでしょうか。何でも自分の思い通りにしたい、あるいは思い通りにならないのはおかしい、そうした現代人の思い上がりがさまざまな不幸の始まりではないか、そんなことを感じました。

「われの心から山は絶えねえ。忘れることはできねえ、山は。夢にもみている、山は。どこも夢にみないが、タイマグラは夢にもみる」
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2011年10月17日

インサイド・ジョブ

リーマンショックを招いた経済人たちへのインタビューで構成された、ドキュメンタリー映画です。銀行や保険会社など、貪欲な金融業者が、政治家や役人、 経済学者、格付け会社などとグル(インサイド・ジョブとは内部犯行のこと)になって、詐欺を働いてきたことが暴露されています。レーガンやブッシュの「規制緩和」とは、実は詐欺の合法化だったようです。

登場する人たちは「アグレッシブなタイプA」であるとか、「貪欲」であるとか、映画の中で評されていますが、そんな生やさしいものではないと思います。マネー・ゲームが全てになっていて、共感性が欠落しているような人たちです。自分が儲けるためだったら、他人がどうなろうと知ったことではない。「詐欺師は他人をだます前に、自分をだます」と言われていますが、自分でも「故意にだましたのではなかった」と思っているからこそ、インタビューを受けたのではないでしょうか。しかしそのほころびが、微妙な声のトーンや口調、表情などに現れます。
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2011年08月11日

コクリコ坂から

 いま公開中の、ジブリ作品です。この映画を観た若い人たちは、どう感じるんだろう? 登場人物たちの生き方や、ふるまいに共感をおぼえるのだろうか? そんなことを思ってしまいました。たとえば主人公と同じ高校生は、どんな感想をもつのか、興味があります。

 たとえば北杜夫の「どくとるマンボウ青春記」には、旧制高校の寮を舞台にした、奇人変人?たちとの熱い関わりが描かれています。ムツゴロウさんにも、同じような著作があったように記憶しています。青年期らしい悩みをもつことが是とされ、大して悩んでいなくても悩んだフリでもしないとカッコがつかない、そんな青春時代です。分ろうが分るまいが、とにかく哲学書を読むのです。それは衒学趣味とも言えるし、教養主義とも言えるのだけど、そんなことにこだわっているのを、堂々と表に出していたように思います。

 「いまの人」とひとくくりにして語ってしまうのが、自分がジジイになった証拠なんでしょうけど。ともかく「いまの人」は、コムズカシイことを考えたり、人との関係に悩んでいることを、表に出そうとしないように見えます。人前ではちょっとおちゃらけて、明るく振る舞うのが良いようですね。「むかし哲学、いまお笑い」とまで言ったら、言い過ぎでしょうか。カッコつけて哲学書を読むのが良いとも思わないけれど、悩みなんかないように振る舞うこともないだろうとも思うのです。
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2010年02月23日

扉をたたく人

 大学教授のウォルター・ヴェイル(リチャード・ジェンキンス)は、妻を亡くしてから20年間も同じ授業をくり返していました。研究もほとんどせず、学生を熱心に指導するわけでもありません。クラシックのピアニストだった妻の影を追っているのか、ピアノのレッスンを何度か受けてみたりしていました。でも本気でピアノをマスターする気持は、ないようです。

 そんなウォルターが共同執筆者になっていたばかりに、ニューヨークで開かれた学会に渋々出張することになりました。大学にはウォルターを支えてくれる同僚がいたり、共同執筆者に名前を載せてくれる人もいたので、人柄は好かれているようです。でも専門用語で表すなら、遷延化した悲嘆反応とか、慢性的なうつ状態と言うことになるのでしょう。

 久しぶりにニューヨークの自宅に戻ってみたら、友人にだまされて住んでいたカップルがいました。シリアから来たパーカッション奏者のタレクと、セネガルから来た恋人のゼイナブでした。不法滞在が見つかって窮地に陥った二人を、何とか助けようとウォルターは奔走します。原題は「Visitor」(訪問者)ですが、ウォルターは「開かない扉をたたく人」になっていきます。

 訪問者たちとの出会いだけではなく、アフリカのリズムとジャンベ(西アフリカで使われる太鼓)も、ウォルターを元気にしていったのかもしれません。タレクは「クラシック音楽は4拍子が基本だけど、アフリカのビートは3拍子が基本。先生は頭は良いけど、それはドラムをたたくにはじゃまなんだ、考えないで」と手ほどきします。そう言えばミルフォード・グレイブスがインタビューで、「ジャズのドラマーは、心臓の鼓動であるスリービートをたたけなくてはダメだ」と話していました。アフリカンビートが「心臓の鼓動」なのは、わかる気がします。強迫的に頭で考えることから抜け出して、のびのびと身体で感じることも、大切なことかもしれません。
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2009年09月14日

ギルバート・グレイプ

 ギルバート・グレイプ(ジョニー・デップ)は、田舎町の小さな食料品店で働いています。7年前に父親が突然に自殺してから、母親は過食症になって身動きも不自由なくらいに太っています。家には二人の姉妹と、障害のある弟のアーニーもいます。ギルバートは一家の大黒柱でもあり、アーニーの世話役でもあります。

 ところでアメリカの精神科医の間では、成人しても親と同居しているのは、あまり健康であるとは受け取られないようです。むしろ十分な精神発達を遂げていないことの、ひとつのサインとして扱われます。日本人はギルバートを「孝行息子」と見るかもしれませんが、アメリカ人はむしろ奇異な生き方をしているように見ると思います。

 見たところ、アーニーは知的障害を伴う自閉症として描かれています(レオナルド・ディカプリオの好演は見もの)。18歳の誕生日を迎えると言うのに、いくら注意されても給水塔に登って警察を出動させてしまうし、「自分で身体を洗うんだよ」と言われれば一晩中バスタブの中で身体を洗っています。ギルバートにとっては可愛い弟でもあるけれど、頭痛のタネでもあります。

 アーニーは実に手がかかる弟なので仕方がないことかもしれませんが、ギルバートは自分のことは二の次で、家族の世話に明け暮れています。人妻の不倫相手をするのは恋や気晴らしというよりは、これまたお世話をしているのかもしれません。弟にだけではなく、母親にも、そして地下室で首を吊った父親にも、しばられているように見えます。人の世話をすることでしか自分の存在を実感できないので、生き生きとした感情の動きがないし、自分のために生きることなど思いもよらないようでした。でも車の故障で足止めをくった少女のベティと出会い、母親の最期を看取ったことで、ギルバートは解放されていきます。

 ところでこの作品では、人の死があっけなく唐突にやってきます。人妻のダンナにも、ギルバートの父親にも、母親にも。闘病も遺言もありません。悲しいけれど、淡々として、ほのぼのとした、不思議な感じの映画です。
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2009年06月24日

十七歳のカルテ

 主演のウィノナ・ライダー自身が境界性人格障害で治療を受けたことがあり、原作を映画化する権利を買い取って製作にこぎつけたという、いわくつきの作品です。

 境界性人格障害が精神医学に登場したのが、1950年代です。神経症(ノイローゼ)として、精神分析による治療をしていくと、症状が悪化して統合失調症のような状態になる患者さんたちが、注目され始めたそうです。神経症から統合失調症への過渡期であるとか、神経症のように見えるけど本質的には統合失調症であるとか、そのような見方をされていました。その後の研究で、ひとつの疾患単位として認められるようになりました。

 「YAVIS症候群」なる言葉を、どこかで読んだことがあります。Young、Attracive、Verbal、Intelligent、Successfulの略で、若くて、魅力的で、よく話して、知的で、社会的地位の高い女性の患者に、オトコの精神科医や心理士がコロっとまいってしまうのだそうです。もちろん最初から患者さんを恋愛の対象として考えるわけではなく、治療者として何とか力になってやりたいと思うのです。でもそれは、私に言わせれば「彼女」が治療者の自己愛を満たしてくれる対象であるからであって、その辺からもうおかしくなっているわけです。境界性人格障害でしかもYAVISだったらこれはもう鬼に金棒?で、映画でもまさしくYAVISのスザンナは精神科医と性的な関係をもっています。

 なかなか理解されにくい境界性人格障害にスポットを当てたのは評価できますが、残念ながら彼らの内面をよく描いているとは思えませんでした。底なしの淋しさや不安、自分が何者か分からなくなる寄る辺なさ、人をさっぱり信じられないことなど、派手な行動化の陰には人知れない辛さがあるのです。また看護師と衝突して「あなたは病気じゃない、甘えているだけ」の言葉をきっかに立ち直っていくのは、どうも解せないところではありました。「甘えているだけ」と言う偏見を助長しないかとも、気になりました。

 反社会性人格障害のリサが非常に魅力的に描かれていて(あのタラコ唇を差し引いても)、ヒロインのスザンナよりも存在感があります。でも反社会性の人って、こんなカワイイもんじゃないだろうな……と思ってしまうのでした。
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2009年05月12日

グラン・トリノ

 西部劇のガンマンやダーティ・ハリーで、暴力による解決を演じてきたクリント・イーストウッドが、どのように現実の暴力に立ち向かうのか……と新聞で論じられていました。そのような見方は私も否定はしませんが、この映画では「魂の救済」が描かれているように感じました。まだ上映中なので詳しくは映画を観ていただくとして、印象に残っている場面を二つご紹介します。
 
 ひとつは主人公のウォルトが、隣家のモン族のパーティーに招かれた時のこと。祈祷師に心を見てもらって「あなたはだれからも尊敬されていない。愛のない生活を送っている。過去のことにいつまでも囚われている。何を食べても味気ない……(よく憶えていません)」と淡々と言い当てられます。これはまさしく彼のそのままであり、そして祈祷師は非難するでもなく救いの手を差し伸べるのでもありません。でもその後ウォルトは猛烈な食欲にかられて、ばくばくと食べ物を平らげてしまいます。

 もうひとつは亡き妻のかねての希望だった、懺悔に教会を訪れた時のことです。朝鮮戦争で降参しかけた少年兵を殺してしまったエピソードを、つい昨日のできごとのように語る彼のことです。どんな懺悔かと思いきや「妻の留守に他の女性とキスをした。盗んだボートを売ってひともうけした。二人の息子との間に溝を作ってしまった」と、ありきたりの小市民的な懺悔に神父は驚きます。でもウォルトにとっては、これが本物の懺悔なのです。

 物語の中心は他のところにあって、そこでもやはり「魂の救済」(これはユング的な表現で、E.H.エリクソンの「統合」と言ってもよいかもしれません)が描かれているように感じました。ここにあげた二つのエピソードは、「ありのままを受け容れる」ウォルトの姿です。人は自分自身のことや、自分と周りの人との関係をありのままに見て、そして受け容れることができた時に、心安らかになれるのではないでしょうか。 
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2009年04月23日

千と千尋の神隠し

 この映画については山中康裕先生は本を出されているし、いろんな人がいろんなことを書いているのでしょうね。主人公の萩野千尋は引っ越しの車中で、すっかりふて腐れていました。「見るからに愚図で、甘ったれで、泣き虫で、頭の悪い小娘」と湯婆婆が毒づくのも、無理はないような女の子でした。それが異界で、みちがえるように成長していきます。

 湯婆婆が営む「油屋」は、八百万の神々が疲れを癒しに来るところとされていますが、私は建物のしつらえや湯女たちから遊郭を思い浮かべました。10歳の女の子の前には、何だか得体の知れないオトナの世界が広がっているのです。それは素敵かもしれないし、不気味かもしれない。何の意味もないかもしれないし、人生の真実がつまっているかもしれない。両極端の間を、行ったり来たりするのだと思います。そんなときに頼りになるのは、自分の眼でしっかり見ることではないでしょうか。

 もともと千尋は、自分にとって大切なものとそうでないものを、見分ける力はちゃんと持っていたのです。だから異界に足を踏み入れようとはしなかったし、食べ物に手をつけなかったし、苦団子は大切にしたし、カオナシから金をもらわなかったのです。でも親の方は、まったく頼りになりません。「この車は四駆なんだぞ」とか言って自慢のアウディでどんどん異界に進んじゃうし、「どうせ後で払えばいいや」と勝手に飲み食いして豚にされてしまいます。

 もう、親の傘の中ではありません。その代わりに祖父(釜爺)、祖母(湯婆婆、銭婆)、姉(リン)、弟(坊)たちが、千尋を成長させていきます。湯婆婆に「よくやったね〜」と抱きしめられてから、千尋は生き生きとし始めるのです。ラストシーンで千尋に「おばあちゃん」と呼ばれた湯婆婆は、何も言い返すことができませんでした。孫娘を手元に置いておきたい、そんなおばあちゃんのような気持を千尋に言い当てられてしまったのでしょう。
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2009年03月23日

酒とバラの日々

 日本のジャズ・ミュージシャンの間では「サケバラ」と呼ばれるほどのスタンダードですが、もとは「ピンク・パンサー」のブレイク・エドワーズが監督した映画のタイトル曲です。ヘンリー・マンシーニの美しいメロディを聴いた人は、どんな「酒とバラの日々」を想像するでしょうか。美男美女が華麗な社交界で、恋のさやあてでもするのかな……と思い描く人が多いのではないでしょうか。ところが主演は「アパートの鍵貸します」のジャック・レモン、そして描かれているのはアルコール依存症なのです。
 アルコールは長期間、大量に摂取していると、飲酒をコントロールできなくなってしまいます。とことん飲むまで止まらないし、酒を飲むために生きるようになります。アルコールが切れてくると体調も気分も最悪になるので、それを治すために飲む。また切れてくると飲む、の繰り返しです。映画の主人公は義父のバラ農園で、隠しておいた酒を探しているうちに、温室をめちゃめちゃにしてしまいます。そのバラ農園を直すつぐないの日々を経て、夫は回復していきます。ところが妻の方が「私も酒を飲めば、夫の気持がわかるようになるかも」と飲んでいるうちに、自分もアルコール依存症になってしまうのです。
 ジャック・レモンの迫真の演技もあって、映画としても秀作だと思うのですが、テレビで放映されることはないようです。もっと多くの人にアルコール依存症について知って欲しいのですが、残念なことです。やはり酒造メーカーがテレビのスポンサーになっているから、でしょうか。

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2009年03月14日

おくりびと

 遅ればせながら、「おくりびと」を見てきました。アカデミー賞の外国映画部門に選ばれるのは、とんでもなく素晴らしいことなのですね。私は映画通ではありませんが、このカテゴリでは映画で描かれている(あるいは私が勝手に想像する)「こころ」について書いてみます。
 「おくりびと」の小林は他人の死を悼み、旅立ちを助けているように見えて、実は自分自身の死を悼んでいるように感じました。私たちは人生の中で、何度かは死んで生き返っています。小林はチェロ奏者としても、夢や理想を追い求める青年としても、突然の死を突きつけられます。東京湾に放り出されて、ぷかぷか浮く蛸のように主体性を失ってしまいました。
 山形の実家には自分を捨てた父親の、父親に捨てられた母親の、そして母親を捨てた自分の臭いがたちこめています。わざわざそんな家に帰らなくてもよいはずなのに、帰ってしまうのです。彼には「やるだけやったんだから、もういいんだよ。よくここまで頑張ったね」と言ってくれる両親はいません。妻とも弱みを見せてなぐさめてもらうような関係では、ないようです。それでも自分のやるせなさを受けとめてくれそうな器が、あの家だったのでしょう。
 小林は自分が父親になること、そして父親と結ばれた息子になることで、新しい自分を生きてゆくのでしょう。「死ぬ気がないんだったら、食うしかない。どうせ食うなら、うまい方が良い」とフグの白子をほおばる社長は、人生を言い当てています。「死ぬ気がないんだったら、生きるしかない。どうさ生きるなら、楽しい方が良い」のです。
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