ブラジルの精神科病院で絵や彫刻による心理療法を行った精神科医、ニーゼ・ダ・シルヴェイラの実話をもとにした映画です。ロボトミー(前頭葉の白質を切除する手術)の紹介フィルムを病院の医師たちが見るシーンがあり、そこで「発明者のモニスがノーベル賞をもらった」とあったので、1950年代なのでしょうか。ニーゼはアイスピックを脳に差し込むロボトミーや、死んじゃうんじゃないかと思うまで痙攣させる電気ショックに衝撃を受けて、作業療法部門の仕事を選びました。ちなみにC.G.ユングも、著作や手紙を通しての師匠として登場します。昭和38年と言えば1964年ですが、三枚橋病院を創立して精神医療の自由・開放化を進めた石川信義氏はこのように書かれているそうです。
昭和三八年、精神科医になってはじめて、私は精神病院というところを見た。鉄格子の向うには、これまで想像したことのない世界が広がっていた。「これはひどい」。心の底からそう思った。あまりのことに心が凍りついて、私は声も立てられなかった。この日に受けた衝撃を私は生涯わすれまい。
私は1980年代になってから関東の精神科病院で実習させてもらいましたが、まさにこんな感想を抱きました。老朽化した閉鎖病棟には畳の病室がならんでいて、鼻が曲がるんじゃないかと思うくらいに臭かったです。「保護室」は鉄格子の独房で、問題を起こした患者さんを懲罰的に入れることもありました。入院患者のほとんどは統合失調症で、発病しても適切な治療につながるまで年月がかかったり、治療を中断して再発を繰り返したりして、「人格の荒廃」と精神医学のテキストに書かれている通りのような患者さんも大勢いました。男性の看護助手が「先生」と呼ばれて、怖がられていました。病院側にしてみれば、暴れる患者さんもいたので、用心棒的な人も必要だということだったのでしょう。
たまたま私が就職した病院には、独房のような保護室はありませんでした。長く入院していた患者さんたちを共同住居に退院させる、社会復帰運動も活発にしていました。でも入院患者への処遇は、上等なものではありませんでした。日本の精神医学の開拓者だった呉秀三は1918年に「わが邦十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸の他に、この邦に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」と書き、日本医師会長の武見太郎が1960年に「精神病院は牧畜業だ」と言い放った現実が脈々と続いているような、そんな感じでした。
でも勤めが長くなるにしたがって、あんまり「悲惨」とは感じなくなっていました。「慣れというものは恐ろしい」だけではありません。これは精神医療に従事している者たちだけの問題ではなく、もっと構造的と言うか、国全体のあり方の問題でもあると感じるようになりました。まず国が決めている入院費が恐ろしく安くて、これでどんな治療をしろと言うんだという感じでした。

さて映画に登場していた患者さんたちは、ホンモノじゃないかと思うくらい、よく演じられていたと思います。最後に登場したニーゼ本人の、「患者さんたちに、より良い人生を送らせてあげようと思っただけ」という言葉には心打たれるものがありました。