2024年08月16日

アメリカン・フィクション

主人公のセロニアス・エリソンは、黒人の小説家で大学教授。周りの人たちは、「モンク」と呼びます。それはユニークな曲を書いたジャズピアノの天才、セロニアス・モンクから来ているのでしょう。ハーバード大学を卒業して、難し過ぎて売れない小説を書いていました。黒人を差別する言葉が入った文学を授業で取り上げると、白人の女子学生が「気分が悪くなる」と席を立ってしまいます。教授会で休職(つまりは給料が出ない)を言い渡されたモンクは、ボストンの実家に帰省しました。

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すると母親の面倒をみていた中絶医の妹は心臓発作で亡くなり、その母親は認知症で高額な介護施設への入所が必要になります。整形外科医の弟はゲイがばれて離婚の憂き目に遭い、経済的には全く頼りになりません。

モンクは自暴自棄になり、それまで軽蔑していた、黒人のステレオタイプを強調した小説を偽名で書きました。愛情を自分にも母親にも向けなかった父親を。「おれがこうなったのは、お前のそせいだ」と拳銃で撃ち殺すラッパーの物語です。エージェントに売り込ませたら、出版社に高額で買い取られました。エージェントは「これは実話で、作者は逃亡犯だからインタビューを受けられない」なんて話をでっち上げる始末。いよいよ出版されることになり、モンクは本当にクソみたいに価値のない本だと思っていたので、「題名を『クソ』にしないと、オレは契約しない」とゴネました。出版社はそれでも出すということになって、小説「FUCK」が世に出ました。映画化の話も出て、文学賞の候補にもなります。

モンクは文学賞の審査員になり、本音をステレオタイプの小説を書いている黒人女性の審査員に打ち明けました。「黒人が貧しくて、犯罪を犯して、ヤクに溺れるようなステレオタイプの小説は、白人の罪悪感を減らすために書かれている」と。白人が気の毒な黒人に共感することで、かつて自分たちが人種差別をしてきたことを忘れさせてくれるのだ、というわけです。

モンクは実家で家族に触れ合うことで、自分の人生や人との関わり方を見直すことになりました。そこもけっこう深いところが描かれていて、良いなあと思って見ていました。

エンディングに流れていた曲は、キャノンボール・アダレイの「サムシン・エルス」に入っている、「枯葉」でした。このセッションの実質的なリーダーは、トランペットのマイルス・デイヴィスと言われています。マイルスの父親は裕福な歯科医で、使用人も雇っていました。マイルス自身も音楽大学の最高峰だった、ジュリアードに入学しています。ステレオタイプでなかった人の音楽を、使っているんですね。

コメディ・タッチですが、あちこちでウィットを効かせながら本質を衝いている、良い映画だと思いました。モントリオールの映画祭で高い評価を得たようですが、日本では一般公開されていないようです。私は配信で観ましたが、楽しめました。
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2022年04月11日

RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語

主人公の肇(中井貴一)は大会社の企画室室長で、役員への道も確実になってきていました。仕事に追われて家族のことは二の次、三の次、仕事のことしか目に入って入っておらず、いつもイライラしています。そんなときに、自分のために工場を閉鎖するのに尽力してくれた親友が交通事故で亡くなり、島根で一人暮らししていた母親が病気で倒れます。子どものころから「バタ電」の運転士になりたかったーーそんな夢を思い出して、一念発起、電車の運転士になって地元で生活する道を選びました。

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表のストーリーとしては、「オレ、何をやってるんだろう」から「夢の実現」をなしとげた、そういう話です。中年期の危機と言ってもよいかもしれません。でもそれはあくまでも「表」で、「裏」が透けて見えてくるのが、この映画の魅力ではないかと思います。

その「裏」とは、中年を過ぎて感じるようになる、加害者意識でしょうか。仕事にかまけて、娘や妻、母親に淋しい思いをさせてきました。機嫌の悪いのをまき散らしていたし。会社の指示とは言え、工場をたたんでリストラを断行しました。仕方のないことだったかもしれませんが、物づくりにかけてきた社員たちへの共感はありませんでした。そして親友が店を予約してくれていたのに、東京にトンボ返りして、飲みに行きませんでした。もし誘いを断らなかったらゆっくり話もできたし、もしかしたら事故にも遭わなくて済んだのかもしれない。

そんな加害者意識、そして贖罪の気持ちが生まれていても、不思議ではないと思うような展開でした。同期で入社した運転士、宮田(三浦貴大)に「エリート」という言葉を使われたとき、肇は「オレはエリートなんかじゃない。自分のことしか考えない人間が、エリートのわけがない」と返していましたが、肇はエリートの意味を分かっていたはずなのに、いつの間にかずれていたことに、気づいたのでしょう。乗客にも宮田にも、家族にも優しく接するようになっていました。大会社の重役候補のときはエリートではなかったけど、運転士になってからエリートになった、そんな成長の物語だと感じました。
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2020年10月12日

ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩(Ballad)

もう20年以上も前の話ですが、新潟から岩手に引っ越すときにジャズの仲間から言われました。「ベイシーには行くなよ。お前みたいなヤツが行くと、ケンカになるから」。「お前みたいなヤツ」とはどんなヤツのことを言うのか? それはさておいて。もちろん岩手に住んでから、ほどなくしてベイシーには行ってみました。でもマスターと話をするわけでもなく(話をするのが難しい大音響です)、黙ってレコードを聴いて、黙ってお金を払って帰るだけです。マスターも黙ってお金を受け取るだけで、何回行っても、その繰り返しでした。だから最近になって「ありがとうございました」などと言われると、「この人死ぬんじゃなかろうか」などと思ってしまうのです。

でも、マスターはこっちのことをジッと見ているような気がします。一枚ごとに、どんな反応を示すのか。そして「今度は、これでどうだ!」みたいに、盤を選んでいる。そしてお金を払うときに、「イイのを聴かせてもらいました」とか「良く鳴ってますね」という顔をしているかどうか。観光地みたいになってしまって、こんな無言の会話をしないまま帰る客には、たぶんマスターはがっかりしていると思います。ジャズ喫茶仲間には、「スマホで写真を撮るだけの客なんか、うんざりする」とこぼしていたようですから。

マスターは映画の中で、「ジャズというジャンルがあるんじゃなくて、ジャズの人がいるんだ」と言っていました。それはそうだとは思うのですが、でもジャズという音楽を愛する者どうしのつながりもあると思うのです。世間的な地位やその他の分け隔てなく、ジャズを前にしたらみんなひとしくバカになるというか、そんな、ある種のコミュニティと言ったら良いのでしょうか。

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私はジャズもオーディオも珈琲も好きで、若い頃はご多聞にもれず、ジャズ喫茶のマスターに憧れていました。でも実際にやることを考えると、いくら好きな音楽でもずっと聴いてはいられないと思ってしまいます。オーディオ装置の調整に余念なく、そして飲み物を客に出しながら、レコードを一枚一枚、演奏する。開店から閉店までの間ずっと、大音量で。それを連日、何十年も。生半可なことではできません。私なんぞには到底できないことで、本当に凄いことだと思ってしまうのです。感動するのは、菅原正二(マスター)という存在に対してですね。
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2020年08月13日

ロケット・マン

たぶんガッカリするだろうから、見ないでおこうかなと思っていました。思いがけず妻がブルー・レイを借りてきてくれたので、あっさりと抵抗が崩壊しました。観てみたらやっぱりと言うか、事実とは異なる脚色もさることながら、タロン・エジャトンの歌がどうにもいただけませんでした。詩人のバーニー・トーピンとエルトンの母親を演じた俳優さんは、好演していたと思います。

スターダムにのし上がったエルトンが、奇抜なコスチュームでグループセラピィに登場します。「治したくて来た」とは言うけれど、彼の場合はアルコール、薬物、買い物、セックスへなどの、依存症のオンパレードです。性的な指向はバイセクシャルで、慢性的に自殺願望も抱いていました。何を治したいのか? 私が勝手に思ってしまうのは、「必要とされる必要」にかられてしまうことかな、ということです。エルトンは家族や恋愛の相手だけではなく、ライブに集まってくる聴衆、サッカーチーム、あるいはエイズで苦しんでいる少年など、さまざまな人々に手を差し伸べます。毒舌家とも知られ、ネットで物議をかもすこともしばしばでした。

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もしかしたら、エルトンは「望まれない妊娠」で生まれた子どもだったのかもしれません。誰からも必要とされていなかったから、「必要とされる必要」にかられるようになったというのは、単純に過ぎる想像でしょうか。
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2019年06月28日

日日是好日

樹木希林さんの遺作となった作品です。

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主人公の女性(黒木華)が、お茶の稽古に通いながら成長していくのがテーマです。場面の大半は、お稽古です。だからドラマティックな見せ場は、まるでない。でも樹木希林さんの演技は真に迫るというか、死期を悟って言っているのだろうな、と思わせるセリフがあちこちで聞かれます。

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原作は森下典子さんの、同名のエッセイ集。心理療法が描かれている映画はありますが、映画そのものが心理療法になっているのではないか、と思わせるような作品です。

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2018年12月25日

ニーゼと光のアトリエ

ブラジルの精神科病院で絵や彫刻による心理療法を行った精神科医、ニーゼ・ダ・シルヴェイラの実話をもとにした映画です。ロボトミー(前頭葉の白質を切除する手術)の紹介フィルムを病院の医師たちが見るシーンがあり、そこで「発明者のモニスがノーベル賞をもらった」とあったので、1950年代なのでしょうか。ニーゼはアイスピックを脳に差し込むロボトミーや、死んじゃうんじゃないかと思うまで痙攣させる電気ショックに衝撃を受けて、作業療法部門の仕事を選びました。ちなみにC.G.ユングも、著作や手紙を通しての師匠として登場します。昭和38年と言えば1964年ですが、三枚橋病院を創立して精神医療の自由・開放化を進めた石川信義氏はこのように書かれているそうです。

昭和三八年、精神科医になってはじめて、私は精神病院というところを見た。鉄格子の向うには、これまで想像したことのない世界が広がっていた。「これはひどい」。心の底からそう思った。あまりのことに心が凍りついて、私は声も立てられなかった。この日に受けた衝撃を私は生涯わすれまい。

私は1980年代になってから関東の精神科病院で実習させてもらいましたが、まさにこんな感想を抱きました。老朽化した閉鎖病棟には畳の病室がならんでいて、鼻が曲がるんじゃないかと思うくらいに臭かったです。「保護室」は鉄格子の独房で、問題を起こした患者さんを懲罰的に入れることもありました。入院患者のほとんどは統合失調症で、発病しても適切な治療につながるまで年月がかかったり、治療を中断して再発を繰り返したりして、「人格の荒廃」と精神医学のテキストに書かれている通りのような患者さんも大勢いました。男性の看護助手が「先生」と呼ばれて、怖がられていました。病院側にしてみれば、暴れる患者さんもいたので、用心棒的な人も必要だということだったのでしょう。

たまたま私が就職した病院には、独房のような保護室はありませんでした。長く入院していた患者さんたちを共同住居に退院させる、社会復帰運動も活発にしていました。でも入院患者への処遇は、上等なものではありませんでした。日本の精神医学の開拓者だった呉秀三は1918年に「わが邦十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸の他に、この邦に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」と書き、日本医師会長の武見太郎が1960年に「精神病院は牧畜業だ」と言い放った現実が脈々と続いているような、そんな感じでした。

でも勤めが長くなるにしたがって、あんまり「悲惨」とは感じなくなっていました。「慣れというものは恐ろしい」だけではありません。これは精神医療に従事している者たちだけの問題ではなく、もっと構造的と言うか、国全体のあり方の問題でもあると感じるようになりました。まず国が決めている入院費が恐ろしく安くて、これでどんな治療をしろと言うんだという感じでした。


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さて映画に登場していた患者さんたちは、ホンモノじゃないかと思うくらい、よく演じられていたと思います。最後に登場したニーゼ本人の、「患者さんたちに、より良い人生を送らせてあげようと思っただけ」という言葉には心打たれるものがありました。
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2018年02月04日

マンチェスター・バイ・ザ・シー

主人公は、ボストンで便利屋をしています。基本的には「良い人」なのですが、偏屈で、人とのつきあいを良しとせず、衝動的なところもあります。楽しそうに生きている感じでは、ありません。何かとてつもなく重いものを、抱えているんだろうと思わせます。そして実際に、抱えていたのです。故郷の兄が亡くなって、甥っ子の後見人に指名されていたことから、それが露わになってきます。いわゆるネタバレになってしまうので、書けないのですが……。

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マサチューセッツ州の「マンチェスター」は人口5千人あまりで、この映画の題名どおり海辺にあって風光明媚な町です。主人公にとっては、故郷の懐かしい人たちも、子どもの頃からなじんでいた景色も、傷をえぐるような痛みしか与えてくれません。劇的な癒しや救いがあるわけではなく、救いようのない重苦しさが淡々と描かれています。人の強さ、こそが希望なのでしょうか。
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2017年06月28日

ザ・コンサルタント

 原題は The accountant (会計士)です。主人公は数を扱うことにかけては天才で、ヤバい金の資金洗浄など、裏社会の会計処理を引き受けています。それでも消されずに生きているのは、ゴルゴ13なみの戦闘能力を身に着けているからです。まさに鬼に金棒ですが、泣きどころもあります。人への関わり方がわからない、何かに取りかかると中断ができない、身体の実在感をもてない、衝動のコントロールができない、行動が型にはまっている、不器用な言葉づかいなど、など。彼は困っている(らしい)ので障害と言えば障害なのですが、それを凌駕する能力で世の中を渡っているわけです。誇張されているきらいはありますが、自閉症スペクトラムの特徴をよくとらえていて感心しました。

 その一方で暴力が問題解決の手段として野放しになっているのが、いかにもハリウッド映画で残念なところです。子どものころ、テレビで西部劇を見ていた父親が「ほら、すぐピストルで殺すだろ。アメリカ人は野蛮だ!」といささかムキになっていたのを思い出します。日本の映画でもチャンバラや撃ち合いはあるし、たかが娯楽にムキにならなくても良いのですが、ここまで派手にやられるとちょっとなあという感じです。「目的が正しければ、手段は選ばない」がこれまで繰り返されてきた戦争の論理で、広島・長崎の原爆も、北朝鮮のミサイルも、イスラム国のテロ攻撃も同じことでしょう。「間違った手段がとられるときは、目的も間違っている」のですよ。わかっていますか? トランプさんに、プーチンさんに、アベさんも……。 
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2016年09月10日

の・ようなもの のようなもの

なかなかいい加減で、ナイスなタイトルですね。森田芳光監督が亡くなってから、森田組のスタッフ・キャストが集まって、「の・ようなもの」の35年後を描いた作品です。私は「の・ようなもの」は見ていないのですが、こちら単体で十分に楽しめる、よい映画だと思いました。

ひとことで言ってしまえば、落語一門を舞台にしたコメディです。大昔に一門から突然に行方をくらました、「志ん魚」(しんとと)を一門会に引っ張り出すべく、マツヤマケンイチ演じる志ん田(しんでん)が奮闘します。この志ん魚さん、ふだんは誰にでもフレンドリーかつ好き勝手な言葉をかけるのですが、高座に上がると客の視線が脳に刺さるように感じて(一言もそんなことは言ってませんが、私が勝手にそう思うだけです)、何も言えなくなってしまうのです。客から良い具合にヤジられて、やっと声を発することができる始末です。一門の兄弟子たちが、「オレたちは、あいつを対人恐怖症ってやつにしたかもしれない」と責任を感じていました。

高座に上がって「……暑いね」とひと言つぶやくだけで、客がドッと笑う。そんな噺家は客を「呑んでいる」のだと思います。客席に目を向けた瞬間に、自分の世界に引き込んでしまうのですね。ところが志ん魚さんのように(志ん魚さんは対人恐怖症ではないと思います)、客に呑まれてしまっている噺家もいます。だれとは言わないけど、寄席で目の当たりにして「あ〜、呑まれちゃってるな」と、ちょっと気の毒に思ったことがありました。おそらくは上手くやろう、受けてやろうと思うあまりに、自分を失くしてしまうのですね。

かたや志ん田は大卒の脱サラ組で、四角四面の性格です。額縁がナナメに曲がっていれば、直さずにはいられない。「小学生が作文を読んでいる」ような、ちっとも面白くない落語をします。昔は弟子入りしようと師匠の門を叩けば、「お前さん、道楽は何をしなさったね」と聞かれたそうです。道楽とは早い話が飲む、打つ、買うの類で、たいがいはそれで身を持ち崩して、食い詰めたような人が噺家になったのでしょうね。食っていくのが大変だから、よほど酔狂な人じゃないと噺家などには、ならなかった。そういう人は失くすものがないし、修行にも身が入ったのでしょう。破れかぶれの凄みが、笑いにつながりもする。大学を卒業して堅気に生きて来た志ん田などは、ファンキー成分に欠けているわけです。それが志ん魚と一緒に暮らしているうちに、彼のファンキー成分を吸収していきます。人間、こんなに簡単に変わるのだったら、苦労はないんだけど……。まあ映画ですから、楽しんでください。
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2016年01月05日

セッション

ジャズの大学(モデルはバークリー?)のドラマーが主人公で、鬼のような教授との血みどろの確執が描かれていました。サド・マゾヒスティックな関係性はある意味、安定しています。「言うことを聞かせる」−「言うことを聞く」だったり、「いじめる」−「いじめられる」だったりと、固定しています。そのため学校でも、会社でも、家庭でもと、あちこちでサド・マゾヒスティックな関係性が重宝されるのかもしれません。対等な関係性の方が双方の成長を育むと思いますが、こちらは簡単ではありません。

主人公はそのサド・マゾヒスティックな関係性の中で、ドラマーとしての力をつけて立場を手に入れます。自己愛むきだしで傲慢にふるまったり、ガールフレンドを出世の邪魔とばかりに切り捨てていました。でも破綻して打ちひしがれたこと、父親がその痛みを分かち合ってくれたことが、彼の目を覚ましたように思いました。主人公は大学を退学になりましたが、「もうこんな生徒を出さないために」と教授の悪行を証言しました。その教授が退屈なピアノ弾き?になっているのをライブハウスの看板で見つけて、ふらっと入ってしまったのは罪責感からでしょうか。仕返しを企む教授よりは、はるかに大人になっています。

映画として面白く観ることができたのは、ひとえにJ.K.シモンズの怪演によるものです。この映画の監督は高校時代にジャズバンドのドラマーだったそうですが、そりゃホンマカイナと思うような噴飯ものの場面が満載でした。なぜゆえ譜めくり(それもドラムだけ)がつくの?とか、まあいっぱいあって書ききれないので列挙はやめておきますが、その中で一番の間違いはチャーリー・パーカーのエピソードに関することでしょうか。

ジョー・ジョーンズがシンバルのネジをゆるめて落とした(投げたのではない)のは、パーカーが下手くそ(バンドマン用語では「イモ」)だったからではありません。調子こいて(もしかしておクスリ?)迷子になって2小節先を吹きまくり、客が騒いでもジョー・ジョーンズがシンバルのカップを叩いても気がつかなかったのだそうです。その場には楽しげな笑いがあっただけで、鬼の形相のドラマーがいたわけではないでしょう。もっともサド教授が勝手に話を作り変えていた、という設定だったかもしれませんが。

いちファンとしては、ジャズがこんな世界だと思われるのは嫌だし、できたらスポーツとかを舞台に映画を作ってもらいたかったです。
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2015年02月04日

ツレがうつになりまして

ご存知の方も多いと思いますが、原作はマンガです。テレビドラマ化されて、そして映画になりました。サラリーマンの夫がうつ病になり、診断を受けて回復に向うまでのプロセスが描かれています。全体としての印象は患者さんがどんな体験をするのかや治療の進め方、家族としての見守り方、周囲からのNG発言まで網羅されていて、啓蒙的な意味でも良くできた作品だと思います。監修をされた五十嵐良雄先生の力も、大きかったことと思います。

「うつ病は心のカゼ」というセリフが登場しますが、この言葉には功罪があるように思います。精神疾患に偏見を持たずに受診したり、周囲の人々が見守ることはとても大切なことで、その意味では「心のカゼ」は良いと思うのです。でも命に別状はなく、安静にしていれば跡形もなく完治するカゼのイメージと、そぐわない現実もあることは確かです。治っていくのに時間がかかる人もいますし、自殺を試みる人もいます。治療では心理的・社会的な要因が濃厚な患者さんにも、抗うつ薬の処方のみにとどまっていることがとても多いと思います。「心のカゼ」は、製薬会社が流行らせたい言葉ではないかな、と思ってしまいます。

ところで主人公の夫婦はイグアナを可愛がっていて、そこに途中から子ガメも加わります。いずれも爬虫類ですが、彼らはうつ病にならないでしょうね。爬虫類は変温動物なので、気温が良ければ活動して、寒くなれば動かなくなるしかありません。環境に大きく依存した生活を送っているので、無理に頑張ることもないし、頑張っても仕方ないし、頑張れない自分を責めることもない。でも私たちほ乳類は気温がどうであれ、体温を一定に保って同じレベルで行動しています。レベルを保つのが当り前になってしまっていて、保てなくなったときに反応を起こすのですね。そうかと言って諸行無常の悟りを開くのは私のような凡人には難しく、悪あがき?の毎日です。
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2014年05月18日

メッセンジャー

イスラエルのオーレン・ムーバーマンが監督した作品。メッセンジャーとは通告官のことで、戦死した兵士の家族を訪ねて、事実と弔意を伝える役割を担っています。陸軍長官の代理として、正装の軍服でマスメディアよりも早くかけつけなくてはなりません。

主人公のウィルはイラクで戦友を救って負傷した「英雄」で、帰国してからこの役割を命じられました。大尉と組んで遺族のもとを訪れるのですが罵倒されたり、悲嘆をぶつけられたりで、決してきれいな儀式にはなりません。そんな中、「大変なお仕事ですね」と手を握ってくれた未亡人に、ウィルは惹かれていきます。また「接触してはならない」という規則を破って、息子を失って泣き崩れる夫婦をハグしてしまいます。

大尉はそんなウィルを厳しく叱責するのですが、ウィルは「俺だって人間だ、日向ぼっこをしていたんじゃない、闘ってきたんだ」と聞き入れようとしません。休暇に二人で出かけて、ウィルのイラクでの体験を聞いた大尉は、号泣します。ウィルが事実を話したことで、ウィルの過酷な状況を兵士として共感して、いたたまれなくなってしまったのです。

ネットの書きこみを見ると「公私混同するような人に告知されたくない」とか、「主人公は甘い」とか、批判的な意見を目にします。私の見方ですが、監督はウィルを理想的なメッセンジャーとして描いたつもりはないでしょう。決まり通りに役割をこなすことができない姿を呈示して、その背後にあるサバイバーズ・ギルティ(生き残った者の罪悪感)とトラウマ障害を描いているのでしょう。おそらくウィルは兵士の死を告げる度に、イラクでの体験がよみがえってきて、「何で自分が生きてしまったのか」と自分を責めなくてはいけなかったのです。

「えひめ丸」の事件を、ご記憶でしょうか。高校生たちを乗せた実習船が、アメリカの原潜に激突されて沈没して、大勢がなくなりました。助かった生徒たちの中に、助かったことを喜ぶ人は一人もいなかったそうです。「もし自分が、下のベッドの子に声をかけていれば、助かったかもしれない……」など、客観的に見れば不合理な思考にとらわれて、自分を責め続けたそうです。そこから回復して自分のペースで生活できるまでに、何年もかかったらしいです。

この任務を命じられたときに、ウィルは「自分は悲嘆カウンセリングを受けていません」と上官に答えていました。サバイバーズ・ギルティを乗り越えるための援助を受けていないと言ったのにもかかわらず、その上官は「この任務には強い人間が必要だ。君は英雄だから、必ずできる」と、とりつく島もありませんでした。この上官の無理解が、ウィルを苦しめたことになりました。
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2014年03月28日

きっと、うまくいく

インドの映画大国ぶりは、知られるようになって来ましたね。「ボリウッド」(ボンベイ+ハリウッド)と呼ばれる、ムンバイを中心にした映画産業の規模は、世界最大なんだそうです。とくにミュージカルでなくても、歌や踊りが唐突に入るのがインド映画のお約束のようで、この映画もちゃんと?入っています。そのため、長いです。

原題はThree Idiotsで、直訳すれば三人のお馬鹿さん。インドの猛烈な工科大学を舞台にしたコメディタッチの映画ですが、ちょっと大げさに言えば人生の真実が含まれています。「きっと、うまくいく」は、主人公の故郷で夜回りのおじさんが唱えていた言葉です。

この大学の学長が、競争主義の権化のような人物です。彼にとっては競争に勝つことが全てなんだけど、でも何のために競争するのか、そもそも競争が必要なのかということは欠落しています。そして人の気持に共感することも、ない。言ってみれば、非常に自己愛的な人物です。この映画では彼の価値感の押しつけが、「ゴーカン」としてからかわれて、はね返されていきます。まだご覧になっていない方は、ぜひ。DVDが出ています。
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2014年01月22日

永遠の0

この映画を見ていて、思い浮かんだことが色々ありました。
私は保育園から、たしか小学校3年生までだったか、「脱脂粉乳」をお昼に飲んでいました。いまのスキムミルクは本当に美味しくなりましたが、当時のものはかなり臭いがきつかったし、上に幕が張っていたりして、なかなかすっと飲める代物ではありませんでした。だからと言って後回しにすると、余計にまずくなる。それに当時は「お残しは許しまへん」でしたから、半べそをかきながらいつまでも脱脂粉乳と格闘する子もいました。

後で知ったことですが、あれは敗戦国の日本に、アメリカが恵んでくれたものでした。私たちはそのおかげで、大きくなれたということです。それに街角やお花見の会場などにいた、「傷痍軍人」。ホータイでグルグル巻きになった人がむしろの上で、アコーディオンやハーモニカで軍歌をやるんですね。中には缶にお金を入れていく人もいましたが、じっと見ていると親からは「見ちゃいけません」みたいに言われました。

親戚や近所には戦争に行って来たり、シベリアに抑留された人がいました。高校の数学教師はもと飛行機乗りの特攻崩れのような人でした。彼らからは、戦争の話を聞くこともありました。特攻崩れの先生は、優秀な教員だったとは思いますが、かなり屈折したところのある人でした。何十年経っても人格の奥深くまで刻印される「特攻隊」の罪深さを、高校生ながらに感じました。

この前に研修会の講師に来て下さった先生は、小学生の時に集団疎開して、何でも食べたそうです。芋のつるとか、アブラゼミとか。

映画の中でも言っていましたが、戦時中や戦後のことを知っている人たちは、どんどん少なくなっています。今からでも、遅くありません。聞けることがあったら、ぜひ聞いておきたいものです。
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2013年09月30日

サイコ

1960年に制作された、アルフレッド・ヒッチコックの名作です。ホラーとか、どうもこの手の映画は苦手なので今まで見ていませんでした。たまたま、NHKのBSで放映したので録画しておきました。とは言え、意を決して見るまでにちょっと時間がかかりました。何しろ女優のジャネット・リーはこのカットで「絶叫クイーン」の名を確立したとかで、それは恐ろしい映画だと思っていたもので……。

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でもいざ見たら、それほど怖くはなかったです(^^;)。ストーリーも予想していた通りに運んでいったし……。

ネタバレになってしまうので書けませんが、犯人の心理と言うか精神状態が、どうも腑に落ちないですね。ちょっと説明がつかないな、と感じてしまいます。

映画としては文句なく面白いし、まだご覧になっていない方はぜひどうぞ。ヒッチコックは「カラーで撮ると凄惨になる」からと、あえてモノクロで撮影したそうです。でもカラーで撮っていたなら、何しろ1960年なので、粒子も粗くて色も悪いはずです。モノクロで精緻に撮影してくれたのが、ありがたいですね。音楽もかなりの不気味さで、凄みがあります。
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2013年04月10日

ローマ法王の休日

原題の「Habemus Papam」(アベムス・パパム)は、ラテン語で「教皇が決まった」という意味だとか。ちょっと古い日本人で知らない人はいない映画、オードリー・ヘップバーンの圧倒的人気にあやかった邦題です。しかし「ローマの休日」とは違って、出てくるのはジイさんの枢機卿ばっかりです。恋も痛快なハプニングもハッピーエンドもなく、生きることへの問いかけと乾いた笑い、そしてパロディが詰め込まれています。傑作だと思う人は思うけど、退屈だと思う人の方が多いのではないでしょうか。

ナンニ・モレッティ監督が自ら演じる精神分析医が、なかなか良い味を出していました。聖書に書いてあることは「うつ病そのもの」と枢機卿たちの前で演説をしたり、うつやら何やらで薬漬けになっている枢機卿たちにバレーボールをさせて元気にしたり。別れた元妻も精神分析医で、何でもかんでも乳児期の「愛情欠乏症候群」にしてしまうのも、ひとつの典型イメージ(現実は違うと思うけど)のパロディですね。

先頃に健康上の理由で退位された法王はかなり珍しい例とのことで、亡くなるまで世界中のカリスマであり続けるのが法王です。アメリカの大統領よりも、きついんじゃないでしょうか。やらなくちゃいけないのは、わかっている。でも自分には、とてもできそうもない。神様、お許しください……のまんまで結末を迎える、救いのない映画です。でも、私は面白いと思いました。

それにしても、マジメすぎるのも困りものです。マジメ過ぎて自分には無理だと考えて、前に進むことができない。そして周りの期待に応えない自分に、困ってしまっています。精神分析医が見抜いた通り、自己愛に浸りきっているのですが、すっかりふさぎ込んでいるので周りが何を言っても聞くはずもない。モレッティ監督は「もっとみんな元気に、いい加減に生きようよ」と言っているように感じます。
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2012年02月11日

タイマグラばあちゃん

岩手県の早池峰山麓に、タイマグラと呼ばれる地域があります。私も宮古への往復で何度か通り抜けたことがあるのですが、それはもうすごい山の中、ところどころ待避所がもうけてあるような一車線の山道が20kmも続くところにあります。ちなみにこの道、冬は封鎖されます。昭和の終わりになってやっとであっても、ここに電気や電話が引かれたこと自体、ちょっとにわかには信じられないような場所です。

開拓された集落も老夫婦の向田さんだけになり、自給自足のような生活をしていました。電気が通り、山荘を開くために若い奥畑さんが隣に引っ越してきて、結婚して長男が生まれました。90歳を越えていたお爺さんは木が枯れるように亡くなり、お婆さんも心臓を悪くして山を下って亡くなりました。奥畑さんたちは、お婆さんから習った味噌造りを受け継いでいきます。そんな様子を、淡々と描いたドキュメンタリー映画でした。

時には優しく、時には厳しい自然の中で起きることを受け入れて、百姓仕事に精を出す毎日。向田さん夫婦は察するに、世間一般で言うレジャーや贅沢、趣味などには無縁の生活だったと思います。でも、とても満たされていたのではないでしょうか。何でも自分の思い通りにしたい、あるいは思い通りにならないのはおかしい、そうした現代人の思い上がりがさまざまな不幸の始まりではないか、そんなことを感じました。

「われの心から山は絶えねえ。忘れることはできねえ、山は。夢にもみている、山は。どこも夢にみないが、タイマグラは夢にもみる」
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2011年10月17日

インサイド・ジョブ

リーマンショックを招いた経済人たちへのインタビューで構成された、ドキュメンタリー映画です。銀行や保険会社など、貪欲な金融業者が、政治家や役人、 経済学者、格付け会社などとグル(インサイド・ジョブとは内部犯行のこと)になって、詐欺を働いてきたことが暴露されています。レーガンやブッシュの「規制緩和」とは、実は詐欺の合法化だったようです。

登場する人たちは「アグレッシブなタイプA」であるとか、「貪欲」であるとか、映画の中で評されていますが、そんな生やさしいものではないと思います。マネー・ゲームが全てになっていて、共感性が欠落しているような人たちです。自分が儲けるためだったら、他人がどうなろうと知ったことではない。「詐欺師は他人をだます前に、自分をだます」と言われていますが、自分でも「故意にだましたのではなかった」と思っているからこそ、インタビューを受けたのではないでしょうか。しかしそのほころびが、微妙な声のトーンや口調、表情などに現れます。
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2011年08月11日

コクリコ坂から

 いま公開中の、ジブリ作品です。この映画を観た若い人たちは、どう感じるんだろう? 登場人物たちの生き方や、ふるまいに共感をおぼえるのだろうか? そんなことを思ってしまいました。たとえば主人公と同じ高校生は、どんな感想をもつのか、興味があります。

 たとえば北杜夫の「どくとるマンボウ青春記」には、旧制高校の寮を舞台にした、奇人変人?たちとの熱い関わりが描かれています。ムツゴロウさんにも、同じような著作があったように記憶しています。青年期らしい悩みをもつことが是とされ、大して悩んでいなくても悩んだフリでもしないとカッコがつかない、そんな青春時代です。分ろうが分るまいが、とにかく哲学書を読むのです。それは衒学趣味とも言えるし、教養主義とも言えるのだけど、そんなことにこだわっているのを、堂々と表に出していたように思います。

 「いまの人」とひとくくりにして語ってしまうのが、自分がジジイになった証拠なんでしょうけど。ともかく「いまの人」は、コムズカシイことを考えたり、人との関係に悩んでいることを、表に出そうとしないように見えます。人前ではちょっとおちゃらけて、明るく振る舞うのが良いようですね。「むかし哲学、いまお笑い」とまで言ったら、言い過ぎでしょうか。カッコつけて哲学書を読むのが良いとも思わないけれど、悩みなんかないように振る舞うこともないだろうとも思うのです。
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2010年02月23日

扉をたたく人

 大学教授のウォルター・ヴェイル(リチャード・ジェンキンス)は、妻を亡くしてから20年間も同じ授業をくり返していました。研究もほとんどせず、学生を熱心に指導するわけでもありません。クラシックのピアニストだった妻の影を追っているのか、ピアノのレッスンを何度か受けてみたりしていました。でも本気でピアノをマスターする気持は、ないようです。

 そんなウォルターが共同執筆者になっていたばかりに、ニューヨークで開かれた学会に渋々出張することになりました。大学にはウォルターを支えてくれる同僚がいたり、共同執筆者に名前を載せてくれる人もいたので、人柄は好かれているようです。でも専門用語で表すなら、遷延化した悲嘆反応とか、慢性的なうつ状態と言うことになるのでしょう。

 久しぶりにニューヨークの自宅に戻ってみたら、友人にだまされて住んでいたカップルがいました。シリアから来たパーカッション奏者のタレクと、セネガルから来た恋人のゼイナブでした。不法滞在が見つかって窮地に陥った二人を、何とか助けようとウォルターは奔走します。原題は「Visitor」(訪問者)ですが、ウォルターは「開かない扉をたたく人」になっていきます。

 訪問者たちとの出会いだけではなく、アフリカのリズムとジャンベ(西アフリカで使われる太鼓)も、ウォルターを元気にしていったのかもしれません。タレクは「クラシック音楽は4拍子が基本だけど、アフリカのビートは3拍子が基本。先生は頭は良いけど、それはドラムをたたくにはじゃまなんだ、考えないで」と手ほどきします。そう言えばミルフォード・グレイブスがインタビューで、「ジャズのドラマーは、心臓の鼓動であるスリービートをたたけなくてはダメだ」と話していました。アフリカンビートが「心臓の鼓動」なのは、わかる気がします。強迫的に頭で考えることから抜け出して、のびのびと身体で感じることも、大切なことかもしれません。
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