主演のウィノナ・ライダー自身が境界性人格障害で治療を受けたことがあり、原作を映画化する権利を買い取って製作にこぎつけたという、いわくつきの作品です。
境界性人格障害が精神医学に登場したのが、1950年代です。神経症(ノイローゼ)として、精神分析による治療をしていくと、症状が悪化して統合失調症のような状態になる患者さんたちが、注目され始めたそうです。神経症から統合失調症への過渡期であるとか、神経症のように見えるけど本質的には統合失調症であるとか、そのような見方をされていました。その後の研究で、ひとつの疾患単位として認められるようになりました。
「YAVIS症候群」なる言葉を、どこかで読んだことがあります。Young、Attracive、Verbal、Intelligent、Successfulの略で、若くて、魅力的で、よく話して、知的で、社会的地位の高い女性の患者に、オトコの精神科医や心理士がコロっとまいってしまうのだそうです。もちろん最初から患者さんを恋愛の対象として考えるわけではなく、治療者として何とか力になってやりたいと思うのです。でもそれは、私に言わせれば「彼女」が治療者の自己愛を満たしてくれる対象であるからであって、その辺からもうおかしくなっているわけです。境界性人格障害でしかもYAVISだったらこれはもう鬼に金棒?で、映画でもまさしくYAVISのスザンナは精神科医と性的な関係をもっています。
なかなか理解されにくい境界性人格障害にスポットを当てたのは評価できますが、残念ながら彼らの内面をよく描いているとは思えませんでした。底なしの淋しさや不安、自分が何者か分からなくなる寄る辺なさ、人をさっぱり信じられないことなど、派手な行動化の陰には人知れない辛さがあるのです。また看護師と衝突して「あなたは病気じゃない、甘えているだけ」の言葉をきっかに立ち直っていくのは、どうも解せないところではありました。「甘えているだけ」と言う偏見を助長しないかとも、気になりました。
反社会性人格障害のリサが非常に魅力的に描かれていて(あのタラコ唇を差し引いても)、ヒロインのスザンナよりも存在感があります。でも反社会性の人って、こんなカワイイもんじゃないだろうな……と思ってしまうのでした。
2009年06月24日
2009年05月12日
グラン・トリノ
西部劇のガンマンやダーティ・ハリーで、暴力による解決を演じてきたクリント・イーストウッドが、どのように現実の暴力に立ち向かうのか……と新聞で論じられていました。そのような見方は私も否定はしませんが、この映画では「魂の救済」が描かれているように感じました。まだ上映中なので詳しくは映画を観ていただくとして、印象に残っている場面を二つご紹介します。
ひとつは主人公のウォルトが、隣家のモン族のパーティーに招かれた時のこと。祈祷師に心を見てもらって「あなたはだれからも尊敬されていない。愛のない生活を送っている。過去のことにいつまでも囚われている。何を食べても味気ない……(よく憶えていません)」と淡々と言い当てられます。これはまさしく彼のそのままであり、そして祈祷師は非難するでもなく救いの手を差し伸べるのでもありません。でもその後ウォルトは猛烈な食欲にかられて、ばくばくと食べ物を平らげてしまいます。
もうひとつは亡き妻のかねての希望だった、懺悔に教会を訪れた時のことです。朝鮮戦争で降参しかけた少年兵を殺してしまったエピソードを、つい昨日のできごとのように語る彼のことです。どんな懺悔かと思いきや「妻の留守に他の女性とキスをした。盗んだボートを売ってひともうけした。二人の息子との間に溝を作ってしまった」と、ありきたりの小市民的な懺悔に神父は驚きます。でもウォルトにとっては、これが本物の懺悔なのです。
物語の中心は他のところにあって、そこでもやはり「魂の救済」(これはユング的な表現で、E.H.エリクソンの「統合」と言ってもよいかもしれません)が描かれているように感じました。ここにあげた二つのエピソードは、「ありのままを受け容れる」ウォルトの姿です。人は自分自身のことや、自分と周りの人との関係をありのままに見て、そして受け容れることができた時に、心安らかになれるのではないでしょうか。
ひとつは主人公のウォルトが、隣家のモン族のパーティーに招かれた時のこと。祈祷師に心を見てもらって「あなたはだれからも尊敬されていない。愛のない生活を送っている。過去のことにいつまでも囚われている。何を食べても味気ない……(よく憶えていません)」と淡々と言い当てられます。これはまさしく彼のそのままであり、そして祈祷師は非難するでもなく救いの手を差し伸べるのでもありません。でもその後ウォルトは猛烈な食欲にかられて、ばくばくと食べ物を平らげてしまいます。
もうひとつは亡き妻のかねての希望だった、懺悔に教会を訪れた時のことです。朝鮮戦争で降参しかけた少年兵を殺してしまったエピソードを、つい昨日のできごとのように語る彼のことです。どんな懺悔かと思いきや「妻の留守に他の女性とキスをした。盗んだボートを売ってひともうけした。二人の息子との間に溝を作ってしまった」と、ありきたりの小市民的な懺悔に神父は驚きます。でもウォルトにとっては、これが本物の懺悔なのです。
物語の中心は他のところにあって、そこでもやはり「魂の救済」(これはユング的な表現で、E.H.エリクソンの「統合」と言ってもよいかもしれません)が描かれているように感じました。ここにあげた二つのエピソードは、「ありのままを受け容れる」ウォルトの姿です。人は自分自身のことや、自分と周りの人との関係をありのままに見て、そして受け容れることができた時に、心安らかになれるのではないでしょうか。
2009年04月23日
千と千尋の神隠し
この映画については山中康裕先生は本を出されているし、いろんな人がいろんなことを書いているのでしょうね。主人公の萩野千尋は引っ越しの車中で、すっかりふて腐れていました。「見るからに愚図で、甘ったれで、泣き虫で、頭の悪い小娘」と湯婆婆が毒づくのも、無理はないような女の子でした。それが異界で、みちがえるように成長していきます。
湯婆婆が営む「油屋」は、八百万の神々が疲れを癒しに来るところとされていますが、私は建物のしつらえや湯女たちから遊郭を思い浮かべました。10歳の女の子の前には、何だか得体の知れないオトナの世界が広がっているのです。それは素敵かもしれないし、不気味かもしれない。何の意味もないかもしれないし、人生の真実がつまっているかもしれない。両極端の間を、行ったり来たりするのだと思います。そんなときに頼りになるのは、自分の眼でしっかり見ることではないでしょうか。
もともと千尋は、自分にとって大切なものとそうでないものを、見分ける力はちゃんと持っていたのです。だから異界に足を踏み入れようとはしなかったし、食べ物に手をつけなかったし、苦団子は大切にしたし、カオナシから金をもらわなかったのです。でも親の方は、まったく頼りになりません。「この車は四駆なんだぞ」とか言って自慢のアウディでどんどん異界に進んじゃうし、「どうせ後で払えばいいや」と勝手に飲み食いして豚にされてしまいます。
もう、親の傘の中ではありません。その代わりに祖父(釜爺)、祖母(湯婆婆、銭婆)、姉(リン)、弟(坊)たちが、千尋を成長させていきます。湯婆婆に「よくやったね〜」と抱きしめられてから、千尋は生き生きとし始めるのです。ラストシーンで千尋に「おばあちゃん」と呼ばれた湯婆婆は、何も言い返すことができませんでした。孫娘を手元に置いておきたい、そんなおばあちゃんのような気持を千尋に言い当てられてしまったのでしょう。
湯婆婆が営む「油屋」は、八百万の神々が疲れを癒しに来るところとされていますが、私は建物のしつらえや湯女たちから遊郭を思い浮かべました。10歳の女の子の前には、何だか得体の知れないオトナの世界が広がっているのです。それは素敵かもしれないし、不気味かもしれない。何の意味もないかもしれないし、人生の真実がつまっているかもしれない。両極端の間を、行ったり来たりするのだと思います。そんなときに頼りになるのは、自分の眼でしっかり見ることではないでしょうか。
もともと千尋は、自分にとって大切なものとそうでないものを、見分ける力はちゃんと持っていたのです。だから異界に足を踏み入れようとはしなかったし、食べ物に手をつけなかったし、苦団子は大切にしたし、カオナシから金をもらわなかったのです。でも親の方は、まったく頼りになりません。「この車は四駆なんだぞ」とか言って自慢のアウディでどんどん異界に進んじゃうし、「どうせ後で払えばいいや」と勝手に飲み食いして豚にされてしまいます。
もう、親の傘の中ではありません。その代わりに祖父(釜爺)、祖母(湯婆婆、銭婆)、姉(リン)、弟(坊)たちが、千尋を成長させていきます。湯婆婆に「よくやったね〜」と抱きしめられてから、千尋は生き生きとし始めるのです。ラストシーンで千尋に「おばあちゃん」と呼ばれた湯婆婆は、何も言い返すことができませんでした。孫娘を手元に置いておきたい、そんなおばあちゃんのような気持を千尋に言い当てられてしまったのでしょう。
2009年03月23日
酒とバラの日々
日本のジャズ・ミュージシャンの間では「サケバラ」と呼ばれるほどのスタンダードですが、もとは「ピンク・パンサー」のブレイク・エドワーズが監督した映画のタイトル曲です。ヘンリー・マンシーニの美しいメロディを聴いた人は、どんな「酒とバラの日々」を想像するでしょうか。美男美女が華麗な社交界で、恋のさやあてでもするのかな……と思い描く人が多いのではないでしょうか。ところが主演は「アパートの鍵貸します」のジャック・レモン、そして描かれているのはアルコール依存症なのです。
アルコールは長期間、大量に摂取していると、飲酒をコントロールできなくなってしまいます。とことん飲むまで止まらないし、酒を飲むために生きるようになります。アルコールが切れてくると体調も気分も最悪になるので、それを治すために飲む。また切れてくると飲む、の繰り返しです。映画の主人公は義父のバラ農園で、隠しておいた酒を探しているうちに、温室をめちゃめちゃにしてしまいます。そのバラ農園を直すつぐないの日々を経て、夫は回復していきます。ところが妻の方が「私も酒を飲めば、夫の気持がわかるようになるかも」と飲んでいるうちに、自分もアルコール依存症になってしまうのです。
ジャック・レモンの迫真の演技もあって、映画としても秀作だと思うのですが、テレビで放映されることはないようです。もっと多くの人にアルコール依存症について知って欲しいのですが、残念なことです。やはり酒造メーカーがテレビのスポンサーになっているから、でしょうか。
アルコールは長期間、大量に摂取していると、飲酒をコントロールできなくなってしまいます。とことん飲むまで止まらないし、酒を飲むために生きるようになります。アルコールが切れてくると体調も気分も最悪になるので、それを治すために飲む。また切れてくると飲む、の繰り返しです。映画の主人公は義父のバラ農園で、隠しておいた酒を探しているうちに、温室をめちゃめちゃにしてしまいます。そのバラ農園を直すつぐないの日々を経て、夫は回復していきます。ところが妻の方が「私も酒を飲めば、夫の気持がわかるようになるかも」と飲んでいるうちに、自分もアルコール依存症になってしまうのです。
ジャック・レモンの迫真の演技もあって、映画としても秀作だと思うのですが、テレビで放映されることはないようです。もっと多くの人にアルコール依存症について知って欲しいのですが、残念なことです。やはり酒造メーカーがテレビのスポンサーになっているから、でしょうか。
2009年03月14日
おくりびと
遅ればせながら、「おくりびと」を見てきました。アカデミー賞の外国映画部門に選ばれるのは、とんでもなく素晴らしいことなのですね。私は映画通ではありませんが、このカテゴリでは映画で描かれている(あるいは私が勝手に想像する)「こころ」について書いてみます。
「おくりびと」の小林は他人の死を悼み、旅立ちを助けているように見えて、実は自分自身の死を悼んでいるように感じました。私たちは人生の中で、何度かは死んで生き返っています。小林はチェロ奏者としても、夢や理想を追い求める青年としても、突然の死を突きつけられます。東京湾に放り出されて、ぷかぷか浮く蛸のように主体性を失ってしまいました。
山形の実家には自分を捨てた父親の、父親に捨てられた母親の、そして母親を捨てた自分の臭いがたちこめています。わざわざそんな家に帰らなくてもよいはずなのに、帰ってしまうのです。彼には「やるだけやったんだから、もういいんだよ。よくここまで頑張ったね」と言ってくれる両親はいません。妻とも弱みを見せてなぐさめてもらうような関係では、ないようです。それでも自分のやるせなさを受けとめてくれそうな器が、あの家だったのでしょう。
小林は自分が父親になること、そして父親と結ばれた息子になることで、新しい自分を生きてゆくのでしょう。「死ぬ気がないんだったら、食うしかない。どうせ食うなら、うまい方が良い」とフグの白子をほおばる社長は、人生を言い当てています。「死ぬ気がないんだったら、生きるしかない。どうさ生きるなら、楽しい方が良い」のです。
「おくりびと」の小林は他人の死を悼み、旅立ちを助けているように見えて、実は自分自身の死を悼んでいるように感じました。私たちは人生の中で、何度かは死んで生き返っています。小林はチェロ奏者としても、夢や理想を追い求める青年としても、突然の死を突きつけられます。東京湾に放り出されて、ぷかぷか浮く蛸のように主体性を失ってしまいました。
山形の実家には自分を捨てた父親の、父親に捨てられた母親の、そして母親を捨てた自分の臭いがたちこめています。わざわざそんな家に帰らなくてもよいはずなのに、帰ってしまうのです。彼には「やるだけやったんだから、もういいんだよ。よくここまで頑張ったね」と言ってくれる両親はいません。妻とも弱みを見せてなぐさめてもらうような関係では、ないようです。それでも自分のやるせなさを受けとめてくれそうな器が、あの家だったのでしょう。
小林は自分が父親になること、そして父親と結ばれた息子になることで、新しい自分を生きてゆくのでしょう。「死ぬ気がないんだったら、食うしかない。どうせ食うなら、うまい方が良い」とフグの白子をほおばる社長は、人生を言い当てています。「死ぬ気がないんだったら、生きるしかない。どうさ生きるなら、楽しい方が良い」のです。