2013年08月18日

我々は、新しい価値を生み出しているのか

GDPが何パーセント上がったから、消費税を上げても良いとかどうとか。テレビを点ければ、こんな話が聞こえて来ます。私は経済には疎いのですが、でも何かと言えば景気、景気と言うのは、どうもなあ……と思うのです。私たちは、果たして新しい価値を生み出しているのでしょうか。そして新しい価値とは何なのか、それを議論しないままに、うわべの数字でどうこう言うのはヘンじゃないかと思うのです。

安心して暮らせることが、新しい価値ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。原発事故と使用済み核燃料の処理に不安を感じながら、「安い」電気を作り使うことは、価値のあることでしょうか。ケータイのために一年のうち一ヶ月働く人もいると思いますが、それは価値のあることでしょうか。

少子高齢化の波は、変えることができないでしょう。住む人が少なくなっていくのであれば、インフラも削っていく必要があるでしょう。必要なものだけに絞って、維持していく仕組みを作れば、それは新しい価値になり得るような気もします。あるいは、人と人のつながり。顔の見える関係を作って、助け合って行くことが、新しいかちではないかと思います。

健康診断の境界値を下げると、たとえば降圧薬の売り上げが倍増する。これは新しい価値なのでしょうか。経済としては大きくなっても、本当に人の幸せにつながることなのか。適度な運動を心がけてストレスへの対処をしていけば、薬に頼らなくても良くなる可能性があります。本当はそっちの方が、価値があることなのでしょう。

自分のポケットの中を膨らませようと、勝手なことを言っているようでは、決して新しい価値は生まれてこないと思います。本質かどうかを見極める力が、いまの日本人に問われているような気がします。
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2012年11月20日

ものすごくしゃべる人

とある日曜日、「里山カフェ」に妻とでかけました。景色のよいところにたたずむお店はこじゃれた雰囲気で、猫たちにもジャマされないでゆっくり食事ができるはず、だったのでですが……。

となりのテーブルに座っている上品な身なりの女性が、向い合って座っている連れの女性に、ものすごい勢いで話をしているのです。もうとにかく、言葉の絶え間がない。テーブルの間があまり開いていなかったせいもあって、内容もしっかり聴きとれます。親戚どうしでどうのこうのという愚痴?話が延々と続いて、とめどがありません。

「早く食べ物が来たら良いのにね、口がふさがるように」と妻に小さな声で言いましたが、実際に食べ物が来ても勢いはおとろえません。「荒れる宴会にはカニを出せ」という言い伝え?があるらしいのですが、カニはおろかラーメンでも、あの口をふさぐのは無理でしょう。

「いくらたまっているにしても、よくあんなに言葉が次から次へと、出てくるもんだなあ。躁状態ってわけでもなさそうなのに」と妻に言ったら、その答が面白かったです。「あれは同じことを何回も言ってるのよ」、つまりは練習の効果というわけです。そうか、そういう見方もあるのか。

話の内容がまた……。普通の感覚だったら、となりのテーブルの人に聞かれたら困るとか、食事の雰囲気を壊したら悪いとか考えて、あんな話はしないと思います。無意識的にだろうけど、あれは他人にも聞かせたかったんだろうと思います。こんな風に考えてしまうのは、職業病でしょうか。それにしても私たちが席についてから店を出るまでの1時間、ほとんど口をはさまずに傾聴していた年配の女性は、素晴らしい聞き手でした。せめてあのランチくらいは、ご馳走してもらってよいと思います。
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2012年04月28日

銀一色

緑一色とか字一色ならわかるけど、そんな役はあったっけ……。麻雀の話ではありません。自転車です。スクールカウンセラーで訪れた中学校の中庭に、自転車点検のために持ち込まれた生徒の自転車が大量に並んでいました。で、どの自転車も銀色なのです。これも銀、これも銀、これも銀……。見渡す限り、銀一色。

そんなことはまさかあるまいとも思いつつ、先生に聞いてみました。

「自転車って、ギンに決まっているんですか?

「そうじゃないんんですけど、実際に通学用の自転車というと、銀色しか選択肢がないみたいなんですよねえ」

言われてみれば、私の子どもたちに買い与えた自転車も銀色だったような、気もしないでもありません。でもこんなにギンばかりだとは、思いませんでした。私が中学生の時には黒、青、緑、赤……、もっとカラフルだったと思います。機能的にもセミ・ドロップハンドル、5段変速、ストップライトやウィンカー、2灯式のヘッドライトにフォグライト……。今にしてみれば、ゴテゴテといっぱい色々なのがついていて、しかもそれをカッコいいと思っていた時代でした。

昔の自転車は高価だったので、れっきとした耐久消費財でした。自転車屋さんは下取り品を調整して中古として店頭に並べていたし、上にきょうだいがいる子は「おさがり」が常識でした。思えば傘だって、雨の日には花が咲いたようにカラフルでした。今や透明か半透明か、ビニール製が幅を利かせています。私たちは豊かになったのか、貧しくなったのか、どちらなんでしょうか。
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2012年02月25日

ライターの回収より、防火教育を

東京で火事があり、小さな女の子たちが焼け死んでしまいました。大人がいない間に、使い捨てライターで火遊びをしていたようです。本当に痛ましいことです。テレビでは使い捨てライターの火遊びで焼死する子どもたちが後を絶たないので、安全策がとられたばかりだと報道されていました。その子たちが遊んでいたのは、簡単に火がつく旧タイプのものだったらしいです。「まだ沢山家庭に眠っている旧製品を回収したり、子どもの手の届かないところに置くべきだ」とコメントされていました。

それも必要なことかもしれませんが、まず大人たちは子どもたちに「火の怖さ」を教えているのでしょうか。いまは煮炊きにも、風呂を沸かすにも火を扱わずにできてしまうし、ゴミを燃やすのも御法度になっているのでたき火を見る機会もありません。火はいとも簡単に燃え移ること、やけどを負ったら跡がいつまでも残ったり、命にもかかわること。そんなことを、あの手この手で教えなくてはならない、そういう時代になっているのだと思います。

子どもが小さいうちからキャンプや野外調理に連れ出して、火の扱い方や怖さを教えるのも良いのではないでしょうか。ちなみに刃物も「肥後の守」のようなナイフと砥石を、子どもたちに与えるのが良いと思います。そうは言っても、まともに研げない大人たちが圧倒的に多いのでしょうね。便利さと引き換えに、何を失ったのかを、考えていきたいものです。
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2011年12月20日

カード地獄

あちこちの店で買い物をするたびに、「ポイントカードをお持ちですか?」と聞かれます。あるいは「カードを作りませんか、けっこうポイントたまりますよ」と、クレジット機能つきのを勧められたりします。実際にポイントがたまって500円の商品券をもらったりすると、けっこう嬉しかったりもするのですが、そのカードを管理するのが私には難行です。レジの前に立つ前に、財布のあちこちを探す羽目になります。ポケットのついた財布に、1枚ずつ収納しておけば良いようなものですが、あーめんどくさい。

顧客の囲い込みのためにカードを出して、わずらわしい思いをさせるのが、「サービス」なんでしょうか? ただでさえ免許証や保険証、図書館カード、レンタルビデオのカードなどがあるのです。それぞれの店でてんでにカードを出したら、どうなるか想像がつかないのかなとも思います。

囲いこむなら、もっと有効でコストもかからない方法があります。なじみになったお客さんには、ちょっとおまけしたり、その人が必要としている情報をこっそり教えれば良いのです。「お客さまだったら、こちらなんかお好きじゃないですか?」とか、「本当は、こっちの方が長持ちしますよ」なんてのも、良いですね。もっともそういう接客ができる店員を育てていくには、アルバイトでは無理でしょうけど。でもこういうことが本当のサービスであるし、販売者の専門性だし、ネット販売への対抗策にもなると思います。

「人を大切にする」ということが、結局は商売のプラスになるのではないかと思うのだけれど、あんまりそういうことを考えている事業主はいないように思います。客が金づるで、販売員が人件費では、あまりにも発展性がないと思うのですが、商売をしている人はどう思いますか?

だれか、私をカード地獄から救ってください。
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2011年11月13日

資本主義は行き詰まる?

経済については、全く詳しいわけではありません。しかし最近のヨーロッパの信用不安などのニュースを目にすると、そんなことを考えてしまいます。借金をして事業を行う。利息を返して、利益を事業に関わった人に分配する。そういう仕組みが、いくつかの面で行き詰まりを迎えているように思います。

その一つは、環境問題です。大量生産と大量消費が地球資源を食い尽くして、環境を壊していくことがはっきりしています。しかし資本主義は、あくなき利益の追求を止めようとはしません。いったん会社組織を作ってしまえば、組織の存続が目的になります。環境に良くない事業であることが分かっていても、取りやめることは容易ではありません。申し訳程度に配慮をして、「地球に優しい」ことをアピールするのが関の山でしょう。

もう一つは、コンピュータの圧倒的な情報処理能力に支えられたグローバリゼーションと、マネーゲームの肥大化です。この二つによって「まじめに働いていさえすれば、生活できる」という、これまでの「常識」が「幻想」になってきています。

「お金」が労働への対価から、ゲームのチップと化してから、持てる者と持たざる者の差が拡大しています。持てる者は、貪欲です。サブプライムローンやリーマンショックは、政財界と学界が結託した詐欺であったようです。資本主義とグローバリゼーションの総本山のアメリカ?で、「ウォールストリートを占拠せよ」とか「資本主義をぶち壊せ」というデモが広がっているそうです。マネーゲームで濡れ手に粟の連中もいる一方で、医療保険にも入れずに病気をしたらアウトの生活をしている人たちも大勢いるそうです。「ソ連」は「ロシア」になりましたが、「アメリカ」はどうするのでしょうか?

さて。コンピュータは数字とグラフによる表現で、そして対面コミュニケーションの機会を減らすことで、私たちから情感を、とりわけ共感性を奪ってはいないでしょうか? 数字には虐げられた者の苦しみや悲しみは、含まれていません。便利を手に入れた引きかえに何を失っているのか、それをどう補っていけばよいのか、真剣に考えなくてはと思います。
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2010年08月19日

シュレッダーの憂うつ

 明日から、スクールカウンセラーが始まります。そう、岩手県は夏休みが短くて、冬休みが長いのです。夏が好きな私としては、地球温暖化で人間が凍ってしまうような寒さもなくなっているので、そろそろ見直しても良いんじゃないかなあ、などと思っているのですが。

 まあとにかく、学校が休みでもやることは色々とあるわけで。過去の面接記録やら会議の資料やら何やら、そのまま捨てられない文書をせっせとシュレッダーにかけておりました。5年間は保存しているのですが、いつまでも保存しておくと、新しい記録を保存するスペースがなくなってしまうのです。この紙もあの紙もメリメリとうめきながら八つ裂きにされていって、満杯になったゴミ袋(大)がいくつもたまってくると、「オレは紙屑製造業だな」などと言う気分になってきます。シュレッダー君もモーターが熱くなって、ひいひい言いながらやっています。昔だったら庭で燃やしたんでしょうが、今は簡単に燃やすわけにはいきません。

 そこでホームセンターで「消しポン」なる、人名を消すハンコを買ってきました。進んでいる人は、もうとっくに使っているんでしょうなあ。個人名をひとつ消せば捨てられるような文書は、これで良し。でもクライエントとの面接記録は、人名を消しただけでは捨てられません。書いた時点で暗号化されているミミズ流の筆記体とは言え、やり取りを漏らすわけにはいかないのです。そして始末に困るのが、学会の名簿。バラしてシュレッダーにかけるのはとてつもなく手間がかかります。いっそのこと糊を溶かした水につけて固めてしまおうか、などとも考えました。

 調べてみたら、クロネコヤマトで「機密文書処理サービス」があるそうです。A4が2列入る段ボールに詰めて持ち込むと、ドロドロに溶かして再生紙にしてくれるそうです。エコなのも好感度大なのですが、事前に登録が必要で、1個につき1800円。これも考えてみます。
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2010年01月21日

餃子の母

<郷里の方言、丸出しです。「せう」は「言う」、「おっかさ」は「おっかさん」、「来てくんなる」は「来てくださる」です>

帰省して珈琲店のカウンターに腰を下ろしたら、懐かしい人が隣にいました。ご亭主と二人で、何十年も餃子の店をやってきたおばちゃんです。私が子どもの頃、父親も常連でした。何とも香ばしくて、お土産の餃子は楽しみでした。その味と同じくらい有名だったのが、おばちゃんの「口」だったようです。店に入ったら「おう、たまに顔見せたと思ったら、(時間が)ちょっと遅いねっか」と言われたと、父親が苦笑いしていました。客は「あすこのおっかさは、本当に口が悪い」と言いながら、かまわれるのを楽しんでいたようです。

仕事についてからそのお店に立ち寄るようになり、ご夫婦の鮮やかな手並みにはびっくりしました。おばちゃんが小麦粉をこねた玉を長く延ばして、包丁でトントンと短く切ります。それを一個ずつ小さな棒と手で丸のすと皮になります。その皮で餡をくるんでいくのですが、とにかくその速いこと。そしてご亭主が焼いていくのですが、お二人とも酔客の相手をしながら、寸分の狂いもなくこなしていくのが見事でした。

そのうち、お店はいつのぞいても閉まっているようになり、私も岩手に引っ越してしまいました。なのでおばちゃんとの会話を、「お店閉めて、どのくらいになりますか?」から始めてしまいました。

「それが、やってんのよ。金曜と土曜だけ。他の日は閉めてるから、死んだんだろうとか、つぶれたんだろうってせってなる人もあるようだけど。お客さんが私たちに死ぬなって。300歳まで生きれなんてせわれて、バカ野郎、それじゃお前の方が先に死ぬだろ!なんてね」

「これは失礼しました。子どもの頃に親父がお土産に持ってきてくれて、それから自分でもおじゃまするようになっていたから、気になってたんですけど。おじいさん、お父さん、お孫さんとと三代で通ってる人も、いるでしょう」

「うーん、いっぱいいるよ。その孫も結婚してたりしてね。ありがたいことだわね。そうやって来てくんなる人がいるうちは、続けようと思って。そのくらいだったら、金曜と土曜でいいやってね。店を開けるのは週に二日でも、仕込みがあるから三日から四日の仕事になってるんだけどね」

「だからって、金曜と土曜だけやってますって、お店の前に出しておくわけでもないんだよね」

「そうそう、分かってる人だけ来てくれれば、それでいいんだわ。だって私、自分のためにやってるんだから。あのね、人の為って書いて、偽(ニセ)って読むんだからね」

「でもあとを継ぐ人は、いないんですか? 弟子入りしたいとか、言われませんか?」

「この頃は、いないね。一人ではできないしね。一番信頼できる人と一緒でないと、無理。だから、お前にはそういう人いんのかって。定年してから始めたいって人もいたけど、年を取ると舌はどんどんダメになるからね。私らみたいに、若いうちに味をおぼえたのとは違うから、難しいんだわ」

「もったいないな。あの味を受け継ぐ人がいいないのは。実入りだって、いいでしょう」

薄給とその他諸々に耐えながら、郷里の精神病院で働いていた頃です。いっそのことここに弟子入りでもした方が良いかな、とぼんやり考えたことがありました。メニューは焼餃子と、水餃子のような「餃子ワンタン」だけ。客はカウンターで餃子をつまんで軽く飲むか、飲んだ後に餃子ワンタンでしめるかで、とにかく回転が良いのです。もっともおばちゃんは長っ尻の酔っぱらいが嫌いで、

「ほらあ、お前がそこに座ってると、次のお客さんが座らんないから、もう帰れっ。そんだけ飲めば、もう沢山だろ(笑)」

と追い返していましたが。餃子をお土産にしたり持ち帰る人もいたし、晩ご飯のおかずに買いに来る人もいたので、なかなか良い商いになっているように見えました。

「実入りはいいよ。でもうちの子どもだって、やだって言ってるからね。この手見てごらん、私の手」

おばちゃんの手は、変形しています。親指の側面にこぶができているし、人差し指から小指にかけては第一関節の皮膚が薄くなっています。仕事一筋に生きた、職人の手です。

「こんなになってるけどね。寝る前には、今日もありがとうねって声をかけて、手をもんでから寝るのよ。子どもが学校に行ってる時分には、ママさんバレーに出てくれないかとか言われたけどね。ごめんね、私の手はブリジット・バルドーのおっぱいと同じで保険かかってんのよう、なんて言って勘弁してもらっていたんだわ」

「あの餃子の作り方は、ずっと同じだったんですか?」

「そうじゃないの。同じようだけど、少しずつ変わっていたのよ。うちんのが食ってみろみたいな目つきで寄越したのを、味見してね。それでこの方がうんまいとなれば、今度からそうするって感じでね。こないだ中国の人が来てったけど、向こうの餃子と全然違うって、びっくりしてた。日本人は口が贅沢だから、できるだけうんまくしていかないとダメなんだって、そうせった」

「へえ、そうだったんだ。軌道に乗っちゃうと、もう変えようとしないお店もあるんだろうけど。ずっと改良を続けていたんだ」

これでなくては、いけません。お客に美味しいと言われて慢心していては、だんだんにレベルが落ちていってしまいます。それはどんな仕事にも、言えることではないでしょうか。

そう言えば昔のことですが、見よう見まねで、皮から餃子を作ってみたことがありました。でもその皮が固くて粘りもなくて、どうみても美味しいとは言えませんでした。

「あの皮は、小麦粉は何を使うんですか?」

「強力粉。だけど一番良いものを使ってるんだわ。それでないと、もちもちした歯ごたえにならんからね。酢でも醤油でも何でもだけど、うちで仕入れてるのは、一番良いものを使ってる。餡もちゃんと、寝かせないとね。そうやって最高のものを作って、お客様に失礼のないようにしてるの。わりぃのは、私の口だけだってせってんだわ、はっはっ」

ここまで打ち込んでいても、大方の客はそんなことは知る由もありません。焼きたての餃子をほおばってビールを一本あけて、好きなことをしゃべって、おばちゃんにやっつけられて帰っていきます。もっとも飲み屋街のど真ん中なので、タチの悪い客だっています。

「ヤクザがさあ、店の入り口の方で騒いでたんだわ。私がわーわー言うもんだから、このおっかさを黙らせれって息まいてね。うちんのはただニタニタして、何にもできないから、警察を呼んだんだわ。この人がここにいると、中のお客さんが帰れないから外に出してくれって」

こういう時にはたいてい、女の人の方が度胸がすわっているようです。おばちゃんは鉄火ですが、ご亭主は温厚な人柄でにこにこして冗談を言っていました。ただいつ行っても一杯きこしめしているようで、チビチビ飲みながら餃子を作っていました。ただの呑ん兵衛の域を越えて、病気になっているのかもしれません。酔っぱらいを追い返して飲ませないようにしていたのは、ご亭主のことがあったからかもしれません。

「私なんかねえ、本に書かれるくらい色んなことあったわね。ただ頭わりぃから、本も書かかんないけどね、はっ、はっ。もう薄情が一番だね、薄情が。飲むだけ飲んで、早く死ねってせってるんだわ」

こんな言葉も飛び出しました。病気で飲んでいる人は、自分で飲酒をコントロールすることができません。まして家族がコントロールすることもできないし、コントロールしようとするのは回復につながりません。ご本人が自分で止める気になるには、「薄情」が一番なのです。おばちゃんは、経験の中からつかみとったのでしょう。

「私はねえ、今が一番幸せ。好きに使える時間はあるし。金だってそんなにかからんくなったし。戦争が終わってからしばらく、ろくに食べるもんがなかったんだもん。野草を取って食べたもんさ。だから昭和ひとケタって、強いよ。戦中、戦後のことを思えば、何だってできると思うから」

「店を始めてからだって、いつだってどうにでもなると思ってた。だって身体ひとつ持ってけば、住み込みで働く先があったからね。今の人が気の毒なのは、働くのにも住まいを自分でなんとかしんけりゃいけんからね」

そう、「おばちゃん」は昭和ひとケタで、けっこうなお年なのです。それでも週に二日とは言え、カウンターの中で立ち仕事をしているのです。

「この歳まで生きることできて、親には感謝してるよ。親の恩と、先生の恩と、親方の恩と、この三つの恩を忘れるようじゃダメなんだ。まあこの手が動かんくなったら、店も辞めようと思ってるけどね。動く間はやってるから。今は不景気で、なかなか出て来らんないって、皆さんせってるけど、たまに気が向いたら来てみてくださいね」

元気でお店を続けて欲しいものです。また行くから。
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2009年11月26日

言語力が危ない?

 25日の夜に、NHKの「クローズアップ現代」で「言語力が危ない」と言う番組があり、興味深く見ました。新人にはコミュニケーション力が不足していると言う企業の人事担当者の声や、就職の面接練習で志望動機はスラスラ言えるのに、「盛岡(郷里)を紹介してください」の想定外の質問に絶句する青年、「ぼくがこの本を選んだのは目次です」から始まる高校生の読書感想文などが紹介されました。言葉で考えをまとめて、表現する力が不足していると言う見方です。その背景として言葉の断片をつないだメールなど、いろいろな要因があげられていました。

 印象に残ったのが、鳥飼久美子さんの言葉です。「コミュニケーションは、スキルではない」とか、「コミュニケーションはマニュアル的なトレーニングよりも、子どもの頃から気持を聴いてもらっていくことで育つ」とおっしゃっていました。鳥飼さんと言えば、私たちの世代にはテレビで同時通訳をされていたことで、おなじみです。いわばコミュニケーションのスキルで、印象に残っていた方なのですが、ご本人は言葉のスキルよりも関係性を重んじているようなのです。

 いくら英語が達者な人でも、「通じないのではないか」と言う不安にとらわれてしまったら、思っていることの何分の一も話せないでしょう。不安のために、会話の土台となる関係性を作れないからです。茶室を造るためにアメリカに招かれた棟梁の「わたし英語はできないんですけど、街を歩いて面白い家があると『アイム、ジャパニーズ、カーペンター。ナイス、ハウス!』と言って見せてもらうんですわ。たいがい家の中に入れてくれて、お茶までご馳走してくれます」と言う話は、関係性ができれば、スキルはどうにでもなる例(「家」限定ですが)かもしれません。スキルと関係性はニワトリとタマゴなのか、関係性あってのスキルなのか。後者なのかも、しれません。

 若い人たちのことを、どうこう言えないと思います。私たち大人が、近所づきあいや親戚づきあいを簡略化してきたり、面と向かっての対話を面倒くさがってきたのです。パソコンも良いけれど、たいがいにしないといけませんね。
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2009年10月26日

音楽が力を持っていた時代

歌手の加藤和彦さんが、自ら命を断たれたと報じられました。「帰ってきたヨッパライ」には、思い出があります。小学生のまだ低学年だったと思いますが、学校の遠足か何かに先だって「上級生があの歌をバスの中で歌ったら、運転手さんが怒ってしまって大変だったから、絶対に歌ってはいけません」と担任の先生が言うのです。

その時はどんな歌か知らなかったのですが、「そんな物騒な歌って、どんなんだろう?」と知りたくなるのが、人情と言うものです。「するな」と言われると、やりたくなるのも人情ですが…。その小学校では長髪の先生のあだ名が「ビートルズ」で、ビートルズとは不良の類かと思っていたのですが、ともかく音楽が力を持っていた時代でした。

テレビで「自分は今までたくさんの音楽作品を作ってきた。でも果たして今の時代に音楽が必要とされているのだろうか」と遺書にあったと聞いて、「うつ病だったのかな」と思っていました。そうしたら北山修先生(精神分析家としては「先生」ですが、彼の詩を歌い本を読み深夜放送を聞いた者としては「さん」で呼びたい面もあります)の追悼文では、うつ病に悩んでいた友人を救えなかった無念がつづられていました。

「うつ病のために自殺をしてしまって、勿体ない……」と考えることもできます。事実はおそらく、そうだったのでしょう。でも「果たして今の時代に音楽が必要とされているのだろうか」という言葉には、一片の真実が含まれていると思うのです。
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2009年08月29日

覚醒剤の報道に思う

 酒井法子さんが覚醒剤を使用していて逮捕されたことが、毎日のように報道されていました。彼女の件に限らずですが、麻薬や覚醒剤で芸能人が逮捕されると、芸能レポーターと称する人々がテレビに登場して、お決まりのパターンでしゃべります。

 いわく、薬物に手を出さざるを得ないような、何かしら「心の闇」のようなものを抱えていたのかもしれない。いわく、○年にこんなことがあって、○年にあんなこともあった。それでも誘惑に負けてしまったのは、本人の「弱さ」があったから。そして止められなかったのは、やはり本人の意志が弱かったから。やはりどんな事情があろうとも、「いけないこと」をしたのだから、反省して更正して欲しい。

 とまあ、こんなところでしょう。この種の報道で本人や家族が傷つくのはもとより、若者たちの薬物への興味が余計にかき立てられているように思います。自分を負のヒーロー、負のヒロインに仕立てあげたい人もいるのです。でも薬物を使用するのは依存症という病気のためであって、本人の弱さや「心の闇」のせいではありません。たしかにこの種の薬物の使用は犯罪でもあるけれど、本質は病気です。芸能人が糖尿病や狭心症になったからと言って、こんなに大騒ぎはされないでしょう。

 私は熱心にテレビなどを見ているわけではないのですが、逮捕に至るまでの行動は、ジャンキーの典型的なものように思います。クスリでハイになることが生きる目的になっているし、クスリが打てなくなるのが何よりも怖いのです。お金や名誉よりも、次のクスリなのです。捕まって名前に傷がつくことよりも、次に打てなくなることの方が怖かったのではないかと思います。

 薬物依存はクスリのない環境に身をおいて依存を断ち切って(精神病院ということになるのでしょうが)、さらに自助グループに参加を続けることで、回復が望める病気です。そういったところも含めて、「病気」として報道して欲しいものです。 
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2009年06月25日

カウンセラーは「職人」か

 信田さよ子BLOGの6月21日付けの記事「職人という言葉のいかがわしさ」に、次のようなくだりがありました。

 カウンセラーという職業に対する私のイメージは、サービス業というものだ。ときどきアンケートなどに、職業欄に丸をつける際、サービス業を選ぶこともしばしばだ。ところが、中には自分のことを「職人である」と自己規定している人も多い。確かにカウンセリングの技法を用いて、ひとりずつていねいにかかわっていく作業は、どこか職人というにふさわしいかもしれない。

 しかし、私はなんともいえない気持ち悪さ、いかがわしさを感じてしまうのだ。市井の片隅にあって、目立つこともなくひそやかにカウンセリングを生業として生きる。それもいいだろう。でも、前近代じゃないんだから、私たちの仕事も厳しい競争や経済状況の悪化と無関係ではない。たぶん、職人という言葉には、利益至上主義じゃないんだよ、有名になりたいという自己顕示欲なんかもってないんだよ、というポーズが含まれている。その偽善的ポーズが私はいやなのだ。


 おっしゃるように「利益至上主義じゃない」とか、「自己顕示欲なんかもってない」というポーズが含まれているなら、偽善的だなあと思うのです。「あるもの」を、「ないふり」していくことは歪みをもたらしていくでしょうし、不健康です。

 でも私が「職人」に感じるポーズは「大学人ではない」、つまり研究者じゃないんだよ、教育者じゃないんだよ、というポーズです。不安定な身分と収入に耐えながら、腕を磨いて現場の仕事を続けていく、と言う矜持を示す言葉のように感じます。もしかしたら大学人になりたくてもなれなかった、と言う屈折もあるかもしれませんが、それでも意地で頑張っているわけです。

 話は飛躍しますが、ゴルゴ13がオリンピックの射撃金メダリストと、ライフルで対決する場面があります。「オレの勝ちだ」と豪語する金メダリストに、「猟師と的撃ちを一緒にするなよ……」とゴルゴ。結末はご想像の通り、金メダリストはあっけなく額を撃ち抜かれてしまいます。

 別に現場のカウンセラーと大学の先生が対決するわけでも、恨みつらみがあるわけでもありません。でも現場で仕事をしている人間には、それなりの自負があるのだと思います。

 私自身の自己規定を問われれば、病院に勤務していたときは「職人」でした。自分でカウンセリングルームを開いたり、スクールカウンセラーに出たり、大学院で講師をしたり……と仕事が広がった今となっては、職人でもあり、商人でもあり、教育者でもある……と拡散しています。色々な側面があって、その間を行ったり来たりする職業と言えるかもしれません。
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2009年04月05日

心理学検定

 検定ばやりは知っていましたが、心理学検定なるものが昨年から実施されているとは知りませんでした。

1、受検は、誰でもできます。心理学部や心理学科の所属や卒業に関係なく、希望するすべての人が受検できます。

2、試験は、心理学の10領域(A領域5、B領域5)について行われ、A領域4領域を含む6領域に合格すると「心理学検定1級」が、A領域2領域を含む3領域に合格すると「心理学検定2級」が取得できます。

A領域:原理・研究法・歴史 / 学習・認知・知覚 / 発達・教育 / 社会・感情・性格 / 臨床・障害

B領域:神経・生理 / 統計・測定・評価 / 産業・組織 / 健康・福祉 / 犯罪・非行

3、問題はすべて5肢選択問題で、各領域から20問が出題されます。合計、200問からなります。

 これが「心理学の実力」を示すことになるのだとか。専門とする分野について先行研究を調査し、研究をデザインして、統制された実験を行い、客観的な分析を行う、と言う方法論を身につけていることが「心理学の実力」の第一歩であって、大学はその訓練のためにあると思っていました。幅広い分野のひとつまみ知識を寄せ集めても、研究も実践もできないのは明らかです。何年か続けていれば、攻略本を丸暗記して合格する中学生も出るでしょうが、どうするんでしょうね。

 何より心理学の大学教育の自己否定につながることを、なぜ大学の先生たちが始めたのか、まったくもって不思議です。こんなことをしている暇があるのだったら、査読のつく研究誌に投稿するのを、義務化した方が良くはないですか? 出題者はもちろん、1級の「実力」を備えた先生方なんでしょうね。「実力」を測ると言いながら、心理学科を卒業すればだれでももらえる「認定心理士」で試験を減免されるのも矛盾していますね……と、嫌味たらたら言いたくもなります。

 なんと、主催している日本心理学諸学会連合には、私が加入している学会も三つ名を連ねています。学会誌を隅々まで読んでいなかったとは言え、全く知りませんでした。それぞれの学会に所属している会員には、周知されていたのでしょうか。なんだか知らないうちに片棒を担いでいたようで、片棒の1万分の1くらいかもしれないけど、腹立たしい思いです。
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2009年04月02日

花巻東高校 センバツ準優勝

 とりたてて野球ファンではないのですが、地元民としてはこれを書かずにはいられないです(笑)。岩手県のチームは初戦突破で上出来、ベスト8でも歴史に残る躍進?なのに、決勝まで進んで県民をテレビに釘づけにしてくれました。長崎の清峰には一歩及なかったですが、よくここまでやってくれました。甲子園の決勝って、あんがい大差がついてしまうこともあるのですが、最後まで競り合うゲームでしたね。
 若い監督さんは、度胸づけのために一発芸をやらせているとのことで、根性論一本やりでないところも好感度大でした。夏の大会で、また活躍してくれることを願っています。
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