2014年06月02日

ASKAのCD撤去

CHAGE and ASKA のASKA容疑者が覚せい剤取締法違反容疑で、逮捕されました。私自身は彼らの音楽に格別な関心は持たなかったし、そういえばテレビで見た、くらいの人です。ただ彼らのCDをリリースしているユニバーサルミュージックが、「企業としてのコンプライアンス(法令遵守)保持のため」と称して、出荷停止などの措置をとっているのがどうにも解せません。ヤクをやった人のCDは売りません、などと言われたらジャズもロックも壊滅です。内田裕也の「作品に罪はない」は、名言ですね。

コトが明るみに出てから、こういう対処をするのも解せません。レコード会社の担当者は、とうに知っていたのではないでしょうか。金づるに使うだけ使って、イメージが悪くなったらしっぽ切りです。そもそも「法令」を持ち出すならば、ミュージシャンが逮捕や起訴されたり、有罪判決などが出たら販売を停止してもよいとの契約がかわされていたのでしょうか? 勝手に販売を停止されたらミュージシャンには印税が入ってこなくなるわけで、それこそコンプライアンスにもとることになります。

企業として云々を言うのであれば、まずは社員教育をきちんとするべきでしょう。ミュージシャンも営業担当も取り巻きも、この業界にはこっち方面で危ない人々が沢山いる……と私は勝手に想像しています。アルコール、ギャンブル(特にパチンコ)、薬物に依存するとどんな生活になるのか、心のありようがどうなっていくのか、回復するにはどうしたら良いのか、家族や身近にそういう人がいたらどうしたら良いのか、教育や啓蒙の活動をするべきです。 

2014年05月15日

オールド・タイマー

高校生の女の子の話を聴いていた時のこと。彼女は家では思い通りに何でもしゃべるそうですが、学校では自分の気持を出せないのだそうです。

「ふーん、あなたは内弁慶ってやつなの?」
「…………?」
「内弁慶って、わからない? ベンケイは知っている?」
「ベンケイ……?」
「牛若丸と弁慶のお話は?」
「いや……」
「源義経は?」
「うん、知ってる」

わざわざ内弁慶などと言う古めかしい言葉を持ち出したのは、家の中だけでむっちゃ強い弁慶になっちゃう――というイメージを彼女の中に作ってもらって、そのイメージに対しての反応を引きだしたかったからです。でも、まったく通用しないので、降参です。思わず「京の五条の橋の上……」というところから、話を始めてしまいました。

これでは「弁慶の泣き所」も死語になっているのでしょうね。それにしても彼女は岩手の子なので、平泉で立ち往生した話とか、聞いたことがなかったのでしょうか。昔はモノもパソコンなかったので、私が小さな頃はみんな同じような話を聞いて、同じような絵本を見て育ったのですが、今の子にはそういうのはないのです、きっと。

自分が誰よりも新しモノ好きで、時代の最先端を行っていたつもりだったのが、こんどは時代から取り残される番になっていくのですね。私はスマホよりもガラケーが良いと思って使っているし、音楽を聴くのもハイレゾ音源のダウンロードとかネットワークオーディオとかには手を出す気もなく、アナログLPやCDを聴いています。新しい物が出てきても、古い物で十分満足しているし、そんなにイイ物とも思えないし、面倒くさいし……。こうして段々に爺さんに、なっていくのかなあ。古い物を使っていても、古いことを知っていても、何か自分にとって新しいことをやっていかないといけませんね。

2013年01月13日

「体罰」ではない

部活の顧問から「体罰」を受けていた生徒が、自殺するという事件が起きました。私は新聞やテレビなどのメディアが「体罰」という言葉を使うのが、どうにも解せません。「体罰」を辞書で引くと、「体に直接苦痛を与える罰」とあります。ではこの生徒は罰を与えられるほどの、罪を犯したのでしょうか。

かりに高校生が路上で他校の生徒を殴ったら、「暴行」として警察につかまるでしょう。でも学校内でやると「いじめ」で、「もうするなよ」で済まされる。教員が他校の生徒を殴れば「暴行」で、校内でやったら「体罰」となる。変ですよね?

体罰と言ってしまうと、不適切ではあるけれども指導や教育の一環という雰囲気が生まれます。しかしバスケットボールの指導に殴打が必要なはずはなく、人権の尊さを教えるべき教員が人権侵害をくり返していたのですから、指導でも教育でもありません。日常的な暴行であり、犯罪として扱われるべきものでしょう。警察が暴行、傷害事件として捜査をすることを願います。

2011年09月05日

「よろしくお願いします」

昨日は Tokyo Jazz 2011 というイベントがあって、FM放送で実況中継されていました。日野皓正さんと言えば日本を代表するトランペッターですが、彼がピアノの佐藤允彦さんや「カリスマDJ」のdj hondaさんなど、多彩なメンバーで登場しました。MCで日野さんは「よろしくお願いします」と言うし、自己紹介した(させられた?)メンバーのほとんどが、やはり「よろしくお願いします」というフレーズを織り込むのですね。大舞台で先鋭的な音楽を演奏する人たち、「大御所」や「カリスマ」や「若手ナンバー1」が一様に「よろしくお願いします」と言うのが、何だか可愛いらしいというか、日本人だなあと思いました。

私の仕事でも、グループ活動や研修会などで順番に自己紹介をする場面になると、やはり皆さんもれなく「よろしくお願いします」とおっしゃいます。名前に続いて「よろしくお願いします」を言ってから、身の上を話して、さらに「よろしくお願いします」でしめる人もけっこういらっしゃいます。私は限られた時間なのだから、この「よろしくお願いします」をやめたら全体で何分の時間が節約できるんだろう……などとも考えてしまうのです。そして「よろしくお願いします禁止令」でも出したら、皆さんとてもしゃべりにくくなって面白いだろうなどと、不謹慎な想像もしてしまうのです。

よくよく考えてみれば、「よろしくお願いします」と言っても、何をどうすれば「よろしく」なのか指定されていません。無意味語と言っても良いのです。おそらく英訳は、不可能なのではないでしょうか。実に日本的な言葉だと思います。「よろしくお願いします」は、どうすれば相手の期待に沿うことができるのか、それを暗黙のうちに了解し合って場を和やかにするということなのでしょうか。悪く言えばなれ合いですし、下手に出る卑屈さというものも見え隠れします。良くも悪くも、日本人のメンタリティを表す言葉かもしれません。

私も自己紹介をする時には、かなりの確率で言っているような気がします。日本人ですから。

2010年09月23日

マジ見てる……

 とある高校に、スクールカウンセラーに行った時のこと。保育実習を引率する先生が、おっしゃっていました。保育園で子どもたちとご対面した女子高生たちが、

 「ね、こっち見てる!」

 「マジ見てる……」

と、宇宙人を見たかのようにヒソヒソやるのだそうです。いざ関わるとなって、子どもが泣き出したりするともう大変。高校生の方が、逃げ出してしまうこともあるそうです。

 これは少子化できょうだいが少なくなって、子どもの面倒をみたりしなくなったのが、影響しているのでしょうか。そうかもしれません。彼らの親世代も一人っ子が珍しくないので、一人っ子どうしが結婚すると、いとこもいないことになります。でもその先生によると、沿岸の高校生はまだ良いのだそうです。彼らは朝の4時に起きてワカメの作業をしたりするので、人と関わるのに慣れているらしいのですね。

 ところで岩手県民の間では、沿岸の人は元気が良くて内陸の人はおとなしい、というのがほぼ定説になっているようです。漁業となると、「板子一枚下は地獄」の世界です。「みんなで仲良くやる」ことよりも、「正しい意見を選ぶ」ことを優先しないと、命を落とすことになりかねません。だから言いたいことは言うし、立場や関係にしばられずに正しい判断を選ぶ風土になるのでしょう。かたや内陸は農耕が中心なので協調性や秩序が尊ばれるし、時には「沈黙は金」にもなるのでしょう。

 彼女たちの「マジ見てる……」が少子化のせいなのか、人と関わる経験が少ないせいなのか、内陸のせいなのか、どうなんでしょう。

2010年05月19日

部品がない!

 企業におもむいて、社員の方のカウンセリングをすることがあります。話を聴いていると日本の工業の構造的な問題、というと大げさかもしれませんが、そんな現実をかいま見ることがあります。

 部品の調達を担当していると、大変なストレスを抱えることがあるようです。ベンダー(納入業者)から、「この部品は、もう生産を止めたい」と言われてしまうと、困ってしまうのです。会社は得意先に納品する約束をしているので、契約違反をすると損害賠償を求められることになります。それが何千万単位、億単位のお金だったら……。

 調達の担当者は「そう言わずに、もう少し待ってくださいよ」と頼むし、ベンダーにしてもそう言われるとむげには断れません。でも採算割れのまま何年も経ったり、こつこつ手作りしていた職人が退職したりすると、「もう、本当に勘弁してください」となります。

 熟練した職人の技術を、簡単に伝えていくことはできません。伝統産業の後継者が育たないのは、人間国宝級の作品は売れるけれども、若い人の修行になるような仕事がなくなってしまったからだ、と聞いたことがあります。法隆寺の修復を手がけた西岡常一棟梁は、宮大工の仕事がない時には鍋のふたを削っていたこともあったそうです。でも今や鍋のふたなど職人さんに削ってもらうことなどなく、ホームセンターで安く買ってしまいます。機械化、ロボット化が進んだ製造現場でも、同じようなことが起きているのかもしれません。

2010年03月09日

親の面倒をみる

もうずいぶん前のことですがテレビを観ていたら、こんな一幕がありました。世界各国の高校生に実施したアンケートの中で「将来は、親の面倒をみたいと思うか?」という質問があり、日本では「はい」と答える率が他の国に比べて低いと言う結果が出ていました。政治家が「これは、問題だ」とコメントしていました。

私は「面倒をみる」の中身が、違っているのだと思いました。おそらく日本人は、「同居すること」が「面倒をみる」ことだと考えるのではないでしょうか。でも日本人よりも多く「はい」と答えていたアメリカ人は、同居することが面倒をみることとは考えないでしょう。彼らにとっては離れて住んでいても、必要な支援をしたり、手紙や電話でやりとりをしたり、贈り物をしたりすることが、面倒をみることではないでしょうか。

親が現役でまだ働いていて、ピンピンしている。でも嫁姑の間が何かと波風が立って、子育てにも影響しているし、妻は別居を望んでいる……という状況があったとします。岩手に来て驚いたのは、そんな時に妻よりも親を選ぶ男性が多いことでした。彼らは「親の面倒をみなくちゃいけないから」と言います。「働くようになったらお嫁さんをもらって、親の面倒をみよう」と純真に思ってきた人を前にして、「一緒に住んでさえいれば面倒をみることになるのか、実は依存しているのではないか……」と、あれこれ考えてしまうのです。

2009年09月15日

しゃがめない子どもたち

 今朝にNHKの東北版を見ていたら、山形県天童市の小学校では和式のトイレを洋式に替えている(しかもウォッシュレット!)そうです。和式のトイレを使えない子どもたちが増えていて、がまんして具合を悪くされるよりは、トイレを替えようということなのです。今はメーカーから出荷される便器のほとんどが洋式なので、これも無理のない話なのかも知れません。

 「和式を使えない」ことよりも気になったのが、「しゃがめない」です。子どもたちにしゃがんでもらうと、かかとがすっかり浮いてしまう子もいて、これでは不安定だしすぐに疲れてしまいます。畳が家からなくなってきているので、正座したこともない子だっているんでしょう。かく言う私とて、しゃがむことはできても、正座は苦手ですぐに足がしびれてしまいます。畳は好きなんですけど……。

2009年08月16日

経営者の孤独

 会社を経営している方の、カウンセリングをすることがあります。これは個人でやっている相談室ならではで、病院で働いていたら得られない経験です。つまりは病気の回復のためではなくて、「経営者として悩んでいるから、話を聴いて欲しい」と言うことなのです。

 事業の展開や人事についてなどのお話を聴くのですが、私は経営コンサルタントではありませんから助言はできません。業界や組織のことを勉強させてもらっているようなもので、「こんな風に話を聴くことしかできませんが、良いのですか?」と訊ねたこともあるのですが、「ここでしか、こんな話はできません」などと言われるので、まあ良いかと思ってお金をいただきます。

 経営者は孤独だと思います。そもそも人の上に立つのは、大変なことです。事業がうまく行く時ばかりではないし、悪い時にはたたかれます。同業者に相談できることもあるでしょうが、できないこともあります。部下にいちいち相談するわけにも、いかないでしょう。秘密を守ってくれて、自分の利益を第一に考えてくれる人として、カウンセラーが選ばれるのかもしれません。もっともカウンセラーとしての私は、より多面的に現実を見ることができるように援助しているつもりです。

 業界の親睦団体とか、ライオンズクラブとか、ゴルフの仲間とかクラブの常連とか、私たち下々にはよく分からない集まりであっても、経営者の孤独を癒す意味があるのかもしれません。会社の経営に関わっている人は、「孤独な仕事」についていることを認識して、どのような形でバランスを取るのかを考える必要があると思います。そうでないとイエスマンの取り巻きを作ったり、ワンマンで孤立していったりと、あんまり良くないことになりそうです。

2009年07月15日

縁側のない家

 縁側のない家が、増えました。縁側に出ていると、近所の人が通りがかって声をかけたりします。「いや、好い天気ですね」「まあお茶でも一杯どうですか……」と、交流が始まったりします。縁側は家の中には違いないのですが、外に対して開かれている空間です。

 東北のような寒冷地では特にそうでしょうが、空調をしようとすると縁側は厄介な存在です。掃き出しの大きな窓ガラスは、断熱性能に劣ります。どだい、狭い家だと縁側に割くスペースがありません。かくして「高気密・高断熱」をうたった、お城のような外壁に小さな窓がついた、縁側のない家ばかりになってしまいました。かく言う私とて、そんな家に住んでおります。

 縁側のない家は、世間に対して開かれていません。裏庭から気軽に声をかけられないし、それなりの明確な用件がなければ訪れることができません。そして門番がいて、執事も召使もいます。ただしこれらは電気仕掛けではありまして、インターフォンに掃除機に、洗濯機に、パソコンに……と数えていけば、相当なことをやってくれるのです。さらにまた電気仕掛けではあるけれど、家の中でコンサートや芝居まで見物できるので、退屈もしないですみます。こんな優雅な生活は、昔であれば王侯貴族の特権だったでしょう。

 さらに言えば、私たちは王侯貴族の孤独も手に入れることになりました。地域の中で交流したり、助け合うことはうんと減ってきています。他人を必要としない便利な生活に慣れてしまって、でも引き換えに何を失ったか気づいていないだけなのです。「ひきこもり」は、決して他人ごとではありません。

2009年06月10日

イソップ物語と伝記

 いまの子どもたちには、「イソップ物語」は読まれていないみたいですね。スクールカウンセラーで行った学校で生徒に聞いてみると、「知りませ〜ん」と言われるお話が多くなっているようです。
だからあっちのグループにも、こっちのグループにもイイ顔をしている女子に「イソップのコウモリみたいになっちゃうかな」なんて言っても、まったく通じないのです。私が子どもの頃は、けっこう一般常識だと思っていたのですが。

 ウィキペディアを開いてみて、私が内容を憶えているのはこんなところでしょうか。

・北風と太陽
・すっぱいぶどう
・アリとキリギリス
・キツネと鶴のごちそう
・ウサギとカメ
・金の斧
・ガチョウと黄金の卵
・うそをつく子ども(オオカミが来たぞ〜)
・ひきょうなコウモリ

 意外だったのは毛利元就の「三本の矢」は、イソップの「三本の棒」をもとに、後世になって創作されたという説です。 

 古めかしい教訓のついたお話は、今の時代には受けないのでしょうね。もっともイソップの教訓に陳腐さやうさん臭さを感じる人は昔からいたようで、たとえばサマセット・モームは「アリとキリギリス」のパロディを作っています。これは面白く読んだ記憶があります。

 子どもたちにイソップと並んで読まれなくなった本は、伝記ではないでしょうか。たしかに偉い人の話を読んだところで、あんまり面白くはないのですが、私たちが子どもの頃はそんな本しか与えられませんでした。「今の子どもたちが読まなくなった」と言うよりは、「今の大人たちが与えなくなった」のです。

 たしかに子どもに寓話や伝記を読ませて、「立派な人」にしようと言うのは、いかにも安直で愚かしいことかもしれません。でも正直に生きることや、努力することの価値を教えようとする、親心の表れでもあったのでしょう。

2009年05月25日

職人を育てる

 いつだったか、床屋さんで聞いた話です。地域に理容師と美容師の学校があるのですが、理容師志望の人はとても少ないのだそうです。さらにその理容師のコースを卒業しても、仕事を続ける人がなかなかいないとのこと。学校で勉強をしている間はまだ良いのですが、実際に現場に出るようになると、「これは自分の仕事じゃない」と感じて辞めていくらしいです。

 ちょっと昔は、なんて言うと急に爺様になった気分ですが、従業員が何人かいる床屋さんには、見習いの若い人たちがいたものです。現場で掃除や洗濯などの下積みをしながら、学校に通って理容師の免状を取って、さらに修行をするという養成システムではないかと思います。ところがいまの理容学校の学生諸君は、働きながらではないらしい。授業料を納めたお客様の身分で親切に教えてもらい、知識は身につけているけど、でも身体はさっぱり動かないから現場に出て怒られるとショックを受ける、なんてことが起きているのではないかと思います。

 職人を育てるのに、学校で知識と技術を教える仕組みが本当に優れているのかどうか、考えてみる必要もありそうです。昔は昔で、おそらくはいじめや暴力などもあったと思うので、徒弟制度を手放しで賛美するわけにもいかないでしょう。でも現場に身を置くことで、床屋とはどんな仕事なのかを肌身で感じて、仕事の流れを身体でおぼえる機会はあったと思うのです。そこをどう補うのか……などと考えていたら、話は他人ごとではありません、私たちの業界でも同じような問題を抱えていたのでした。

2009年04月17日

飲みにケーション

 メンタルヘルス活動で関わった管理職の方が、ぼやきます。昔は会社帰りにみんなで飲みに行って、仲間内の誤解を解いたり、叱りつけた部下のフォローもできたのに、今はそんなこともできなくなった...と。「飲みにケーション」がストレスの発散だけではなく、組織運営にも一役買っていたのは、昔の話になりつつつあります。もっともその「飲みにケーション」だって、色々と弊害もあったのでしょうから、今を嘆くこともないでしょうが……。

 日本は農耕社会で、となり近所とのつきあいが何よりも大事でした。水などの資源を分け合って使わなくてはならないし、いざと言うときには協力しないと、必要な作業が何一つできないのですから、当たり前のことです。だから何もなくても、より集まって親睦を深めようとします。これがそのまま持ち込まれたのが、サラリーマン社会だったように思います。

 私自身、会社員生活を送ったことがあります。社長自ら「家族的な会社」と言っていましたが、なんとお誕生日会までありました。社員食堂でむっつりとケーキを食べて、記念品をいただいて帰ると言う恐ろしい集まりでした。コストをかけるからには、会社としても何かしらの効果を狙っているわけで、ふだん話をすることもない社員同士のコミュニケーションを図っていたのでしょう。

 ところが会社も人海戦術に頼るよりは、個人の能力に賭けるご時勢を迎えているようです。たとえばゲームの開発だったら、大ヒットが一発出るのが重要で、平凡な作品が100本できても利益に結びつかないでしょう。社員同士が競争してくれた方が、良いわけです。

 社員の側から見ても、定年を迎えるまで会社が公私の両面をがっちり守ってくれるわけではなくなりました。勤務時間を過ぎたら、会社の人とつきあうよりは、プライベートの時間を大切にしたいと考えるようになっても、無理はありません。
 
 「飲みにケーション」に頼らずに、勤務時間の中で部下を教育、管理して、質の高いコミュニケーションを図ることが、管理職に求められています。そしてこれは我田引水ですが、カウンセラーがそのお役に立てる可能性は大きいのです。