ストレス学説は、ハンス・セリエ(1907〜1982)が唱えたのが始まりです。刺激(ストレッサー)が生体にかける負荷が、ストレスです。セリエはストレッサーを、気温や放射線などの物理的ストレッサー、薬物などの化学的ストレッサー、ウィルスやカビなどの生物的ストレッサー、怒りや不安などの心理的ストレッサーに分類しました。この時点では生理学的な反応であって、「ストレスを感じる」かどうかの認知は重要視されていません。セリエは心理学者ではなく、生理学者です。ネズミなどの実験動物でストレス学説を打ち立てました。
1960年代になってホームズとレイがさまざまなライフイベントを点数化して、尺度を作りました。たとえば配偶者の死が100、懲役が63、結婚が50、上司とのトラブルが23といった具合で、こうなると生理学から心理学の世界になっていきます。またストレスが尺度に載るようなライブイベントと、通勤や家事などのデイリーハッスルに分けて語られるようになっていきます。またストレスには「気づいているストレス」と「気づいていないストレス」が「ある」ので、認知が濃厚にからんできます。
また心理学者のラザルス(1922〜2002)が、ストレス・コーピングモデルを提唱します。こうなるともう完全に認知の世界で、ヒトがストレッサーをどう感じるかによって、ストレスの強弱が決まるという話です。たとえばテストを「また点が取れなかったら嫌だなあ」ではなく、「学習の課題を見つける機会だ」と思えば良い、みたいな対処法もアリということです。もちろん、そんな心配をしているヒマがあるんだったら、公式の一つも憶えましょうという対処法もアリです。それが体系化されてストレス・マネジメントとして、企業や学校でも普及してきました。またこういった認知を中心に据えたモデルは、認知行動療法とも馴染みが良いので、便利に使われてきました。
そして1995年にスティーブン・ポージェスが発表した「ポリヴェーガル理論」が、私に言わせればコペルニクス的転回です。ポージェスは副交感神経系には、不動化(死んだふり)を引き起こす背側迷走神経と、コミュケーションを生む腹側迷走神経があるとしました。腹側迷走神経は、進化論的には最後に出てきた哺乳類になってから生まれたもので、コミュニケーションを取ることで身の安全を図っているということです。もう一つの自律神経、闘うか逃げるかを可能にする交感神経、これら三つが反射で切り替わって、私たちは生命維持をしてきたということです。
哺乳類は、ふだんは腹側迷走神経で群れの中で仲良くやっていきます。でもシマウマの群れにライオンが近づくと一瞬で危険信号が広がります。彼らは危険を身体で感じて(ニューロセプション)、交感神経が発動して、それが仲間に伝わります。つまり「ライオンが来たぞ、逃げろ!」と、目で見て音で聴く認知は、絡んでいません。中には背側迷走神経が作動して、倒れて動けなくなくなるシマウマもいるかもしれません。そのままショック死に陥る危険もありますが、ライオンがかみついても動かなければ、助かる可能性があります。肉食動物の多くは、死んだ動物を食べないからです。
私たちが言葉で考えるのは、前頭葉が働いているとされます。これが理性脳だとすると、友好的にコミュニケーションをとる(腹側迷走神経)、闘うか逃げるか(交感神経)、凍りつく(背側迷走神経)を選択するのが進化論的に古い生存脳です。そして生存脳は理性脳より素早く反応します。だから生存脳が働いて「頭では分かっているけど できない or やらかした」とか、後で理性脳が追いついて「こうすれば良かった」ということが出てきます。
ポージェスは神経学者で、「これまでの心理学はあまりにも認知に偏っている」と言っており、ストレスは自律神経系の反応の大きさによって測られるべきだとしています。「ストレスという言葉だって、できたら使いたくない」とも。安心感があると腹側迷走神経が働いて人と関わることができますが、交感神経が働いて興奮・緊張状態にあるときは「ほっ」とする、背側迷走神経が働いて動けない・感じない状態になったときは「まあいいか」になることで、また人と関われるようになっていきます。
「動けない」からの回復は、まず背側迷走神経で不動化することで、自分を守ることが「できた」ことを認識することかもしれません。たとえば不登校になって家でじっと動かない子には、そうやって守ったことを祝福してあげてほしいと思います。そのうえで安心できる環境を用意してあげられれば、「まあいいか」と動き出せるのではないでしょうか。もし再登校したら、交感神経で「闘うか逃げるか」のモードに入っているかもしれません。昇降口から心臓がドキドキしていたり、人目を避けて保健室の出入り口から入ってきたら、もうそうですね。先生方には「ほっ」とするような働きかけをして欲しいです。くれぐれも、さらにプレッシャーをかける声がけをしないように。
ポリヴェーガル理論が実用化された始まりは、自閉症の子どもに加工された特殊な音を聴いてもらうことで、行動を改善するという装置です。その後にトラウマを負った人たちへの支援や心理療法に用いられるようになり、いまでは心理療法の世界にも多大な影響を及ぼしています……アメリカでは。黒船級のインパクトがあるはずなんですが、日本の心理療法業界を席巻するには至っていません。不登校の子どもたちをどう理解するのか、どう関わっていけば良いのか、教職員とスクールカウンセラー、保護者との間でポリヴェーガル理論を共有できれば、頼もしい支援になっていくと考えます。
2023年04月09日
2021年12月15日
「登校刺激」の廃絶を
教師が子どもに登校を促すとか、学校に来るように誘ってみるのは、だいたいは良くない方向に作用します。でもときには登校するきっかけになることもあるので、全面的に排除しようということではありません。「登校刺激」という用語をなくそうという話です。だれが言いだした言葉なのか、どこで使われるようになったのか知らないのですが、「登校刺激」は学校の会議や資料にも登場します。文科省も使っているのかな? どうなんでしょう。
「登校刺激」にはそのときの子どもの状態も、子どもとの関係性も、どんな文脈でどうコミュニケーションするかも関係がありません。すべてそのひとことに塗りこめられてしまいます。たとえば初めて見るような先生が怖い顔で「学校には来るんだぞ!」と言うのも、いつもゲームやマンガの話をしていた先生が「学校なんて、行きたくなったら行けばいいさ」とニヤっとするのも、同じ「登校刺激」になります。前者は有害無益ですが、後者は無害かつ巧妙な促しです。
不登校には、まずもって本人や家族をサポートする、寄りそう、その姿勢が求められます。先生から学校においでと「指導」されるくらいで来れるなら、そもそも不登校にはなっていません。そしてその「指導」通りにならないと、「本人の意欲がない」「家族に押し出す力がない」で片づけてしまう。そういう先生も実際にいたりして、困ったものだと思うのです。どうしたらその先生をサポートできるのか、こちらの感情をコントロールすることも求められます。そして実はその「指導」というのが、その人の自己愛がからんでいるので根深い問題だし、頭kら否定してしまうと逆切れされるのが関の山になります。
「登校刺激」にはそのときの子どもの状態も、子どもとの関係性も、どんな文脈でどうコミュニケーションするかも関係がありません。すべてそのひとことに塗りこめられてしまいます。たとえば初めて見るような先生が怖い顔で「学校には来るんだぞ!」と言うのも、いつもゲームやマンガの話をしていた先生が「学校なんて、行きたくなったら行けばいいさ」とニヤっとするのも、同じ「登校刺激」になります。前者は有害無益ですが、後者は無害かつ巧妙な促しです。
不登校には、まずもって本人や家族をサポートする、寄りそう、その姿勢が求められます。先生から学校においでと「指導」されるくらいで来れるなら、そもそも不登校にはなっていません。そしてその「指導」通りにならないと、「本人の意欲がない」「家族に押し出す力がない」で片づけてしまう。そういう先生も実際にいたりして、困ったものだと思うのです。どうしたらその先生をサポートできるのか、こちらの感情をコントロールすることも求められます。そして実はその「指導」というのが、その人の自己愛がからんでいるので根深い問題だし、頭kら否定してしまうと逆切れされるのが関の山になります。
2010年06月04日
無理に連れていくのは……
最近はさすがに少なくなったように感じますが、学校に行きたがらない中学生を、強引に連れてくる家族がいらっしゃいます。車に押し込んで昇降口につけたものの、「降りなさい」「降りたくない」でひと悶着となって、泣き出す子もいます。それを見た先生方が飛び出して来て……となると、もういけません。「こんなところを友だちに見られていたら、どうしよう」と、中学生にとってはとても恥ずかしい体験になるかもしれません。ますます学校が怖くなって、親への不信感がつのるのが関の山というところです。
「小学校の頃は、無理にでも連れていけば一日過ごして、登校が続くようになったので連れてきました」と言われる家族も、いらっしゃいます。「小学校ではうまくいった」という実績があるだけに、子どもの気持が見えにくくなってしまうようです。
そう言えば生徒を昇降口まで迎えに出て、二、三人の先生が取り囲んで護送するような学校も、なくなってきたように思います。無理強いして学校に居させても効果がないことが、理解されるようになってきたのかもしれません。いずれにしても中学生になったら、自分のことは自分でするものです。子ども扱いしないように、気をつけたいものです。
「小学校の頃は、無理にでも連れていけば一日過ごして、登校が続くようになったので連れてきました」と言われる家族も、いらっしゃいます。「小学校ではうまくいった」という実績があるだけに、子どもの気持が見えにくくなってしまうようです。
そう言えば生徒を昇降口まで迎えに出て、二、三人の先生が取り囲んで護送するような学校も、なくなってきたように思います。無理強いして学校に居させても効果がないことが、理解されるようになってきたのかもしれません。いずれにしても中学生になったら、自分のことは自分でするものです。子ども扱いしないように、気をつけたいものです。
2010年03月24日
普通の会話
スクールカウンセラーをしていると、
「うちの子は学校に行かないだけで、あとは普通なんです。テレビみてゲラゲラ笑ってるし、おやつも食べるし、ゲームもするし。でも学校について話そうとすると嫌な顔をしたり、自分の部屋に逃げ込んでしまったり。これではちっとも話ができません」
と言ったお話を、保護者の方から聞くことが多いです。親にしてみたら、肝心な話がちっともできないし、いったいうちの子は何を考えているんだろう、と言うことになるようです。
私は、こんな風にお話することが多いです。
「不登校は、学校に行けるようにしてあげることよりも、こじらせないことの方が大事です。学校を休むのが長くなってくると、お子さんとの間で普通の会話が減っていって、親ごさんは学校や進路についてばかり言葉をかけるようになります。でもたいがいは、お子さんも学校に行かなくてはいけないと思っていながら、どうしても行けないのです。だんだんに言葉をかけられても、無視をしたり、反発したりして、さらにこじれると部屋にひきこもったり、昼夜逆転の生活になっていったりします」
「だから普通の会話を大切にしてください。テレビ見てこれ面白いねとか、ご飯食べたらこのおかずはどうやって作ったとか、近所でこんなことがあったとか。そういった、どうでも良いような話です。学校のことは、お子さんの方から言い出した時には、相談にのってあげてください」
もし子どもが骨折して学校を休んでいるのなら、家族との関係が悪くなることはないでしょう。でもいわゆる不登校では、子どもと親のコミュニケーションが成り立たなくなっていくことが多いのです。骨折は「学校に行きたいけど、行けない」が目に見えますが、不登校はそういうわけにいきません。親は「学校に行きたいって言ってるけど、それはポーズであって、実はナマケなんじゃないか」とか、「学校に行くことがいかに大切か、分っていないんじゃないか」と考えてしまうこともあります。子どもがテレビを見て、ゲームをして、不登校ライフをエンジョイしているように見えてしまうと、穏やかではいられなくなってきます。
学校を休んでいる子どもにとっては、家族に安心して話ができることが、一番の支えになっていくように思います。学校の話を親から持ち出すのは、プレッシャーになることが多いものです。親が言わなくても、学校のことは毎日考えているはずです。考えてしまうから、辛くなるから、ゲームやお笑い番組に熱中するのかもしれません。
「うちの子は学校に行かないだけで、あとは普通なんです。テレビみてゲラゲラ笑ってるし、おやつも食べるし、ゲームもするし。でも学校について話そうとすると嫌な顔をしたり、自分の部屋に逃げ込んでしまったり。これではちっとも話ができません」
と言ったお話を、保護者の方から聞くことが多いです。親にしてみたら、肝心な話がちっともできないし、いったいうちの子は何を考えているんだろう、と言うことになるようです。
私は、こんな風にお話することが多いです。
「不登校は、学校に行けるようにしてあげることよりも、こじらせないことの方が大事です。学校を休むのが長くなってくると、お子さんとの間で普通の会話が減っていって、親ごさんは学校や進路についてばかり言葉をかけるようになります。でもたいがいは、お子さんも学校に行かなくてはいけないと思っていながら、どうしても行けないのです。だんだんに言葉をかけられても、無視をしたり、反発したりして、さらにこじれると部屋にひきこもったり、昼夜逆転の生活になっていったりします」
「だから普通の会話を大切にしてください。テレビ見てこれ面白いねとか、ご飯食べたらこのおかずはどうやって作ったとか、近所でこんなことがあったとか。そういった、どうでも良いような話です。学校のことは、お子さんの方から言い出した時には、相談にのってあげてください」
もし子どもが骨折して学校を休んでいるのなら、家族との関係が悪くなることはないでしょう。でもいわゆる不登校では、子どもと親のコミュニケーションが成り立たなくなっていくことが多いのです。骨折は「学校に行きたいけど、行けない」が目に見えますが、不登校はそういうわけにいきません。親は「学校に行きたいって言ってるけど、それはポーズであって、実はナマケなんじゃないか」とか、「学校に行くことがいかに大切か、分っていないんじゃないか」と考えてしまうこともあります。子どもがテレビを見て、ゲームをして、不登校ライフをエンジョイしているように見えてしまうと、穏やかではいられなくなってきます。
学校を休んでいる子どもにとっては、家族に安心して話ができることが、一番の支えになっていくように思います。学校の話を親から持ち出すのは、プレッシャーになることが多いものです。親が言わなくても、学校のことは毎日考えているはずです。考えてしまうから、辛くなるから、ゲームやお笑い番組に熱中するのかもしれません。
2009年10月29日
居場所がない
不登校の子どもたちに共通しているのは、学校、あるいは教室が「居場所」でなくなっているということです。居場所とは、安心して自分を出せるところです。子どもたちは机と椅子さえあれば、そこが居場所になるわけではありません。周りの人たちから「そこに居て良いんだよ」と認められ、自分でも「ここに居て良いんだ」と思えることで、教室が居場所になります。
これは何も子どもに限ったことではなく、大人も勤め先で居場所があるかないかは大問題です。居場所がなくなった大人は、異動したり転職したりできます。職場に行きたくない気持についても「人間関係がつらくて」と言えば、周りの人は納得してくれるかもしれません。でも中学生が「教室の雰囲気が嫌だから、学校に行きたくない」と言ったら、周りの大人たちはその子に「そんなことに負けるな」と、もっと努力するように求めるでしょう。
さて教室を「居場所」に感じることができるかどうか、これはかなり主観的な問題です。「居場所がない」=「いじめや意地悪に遭っている」、というわけではないのです。実際にいじめや友だちとのけんかで、居場所を失くしてしまう子はいるし、そういう場合は周りの大人たちも対応を取りやすいと言えます。でも客観的に見たら特に意地悪されているわけでもないし、むしろ周りの生徒たちはその子を思いやって話しかけたりしている、と言うケースはいくらでもあります。なぜ教室を居場所に感じることができないのか、これは人それぞれです。またそこのあたりを見立てて行くのが、スクールカウンセラーにとって大切な作業と言えます。
これは何も子どもに限ったことではなく、大人も勤め先で居場所があるかないかは大問題です。居場所がなくなった大人は、異動したり転職したりできます。職場に行きたくない気持についても「人間関係がつらくて」と言えば、周りの人は納得してくれるかもしれません。でも中学生が「教室の雰囲気が嫌だから、学校に行きたくない」と言ったら、周りの大人たちはその子に「そんなことに負けるな」と、もっと努力するように求めるでしょう。
さて教室を「居場所」に感じることができるかどうか、これはかなり主観的な問題です。「居場所がない」=「いじめや意地悪に遭っている」、というわけではないのです。実際にいじめや友だちとのけんかで、居場所を失くしてしまう子はいるし、そういう場合は周りの大人たちも対応を取りやすいと言えます。でも客観的に見たら特に意地悪されているわけでもないし、むしろ周りの生徒たちはその子を思いやって話しかけたりしている、と言うケースはいくらでもあります。なぜ教室を居場所に感じることができないのか、これは人それぞれです。またそこのあたりを見立てて行くのが、スクールカウンセラーにとって大切な作業と言えます。
2009年09月21日
悪者を作らない
「原因を追及しない」ことは、「悪者を作らない」ことにつながります。親が「うちの子が学校に行けなくなったのは、先生が無理をさせたせい」と言い、「あの子が学校に来れないのは、親が子どもの言いなりになっているから」と先生が言い、ご本人をそっちのけにしているうちに1年や2年、すぐに経ってしまいます。
悪者を作らない方が良いのは、だれか「悪い人」ができてしまうと、「あの人がああだから、しょうがない」でひと区切りがついてしまうからです。これでは、良くなるものも良くなりません。そして「ひとのせいにする」スタイルを、子どもが見習っていくことも考えられます。大人たちは、子どものモデルになっていることを忘れてはなりません。
悪者を作らない方が良いのは、だれか「悪い人」ができてしまうと、「あの人がああだから、しょうがない」でひと区切りがついてしまうからです。これでは、良くなるものも良くなりません。そして「ひとのせいにする」スタイルを、子どもが見習っていくことも考えられます。大人たちは、子どものモデルになっていることを忘れてはなりません。
2009年09月09日
原因追及は役に立たない
子どもが学校を休み出すと、家族や先生など周囲の大人はその原因を探そうとします。いじめられているのではないか、勉強が嫌いなのか、友だちと何かあったのではないか……。
当の本人は、学校を休む理由をはっきりあげることは、まずありません。でも「学校を休むからには、何か理由があるんでしょ、言ってごらん」と詰め寄られて、たとえば「部活が嫌だ」などと言うことはあります。大人の感覚では「部活が嫌なんだったら、別の部活にすれば良いことでしょ」と言う話になるのですが、それではらちがあかないことが多いのです。
私たちは何か困ったことが起こると、その原因を取り除いて解決をしようとします。「科学的」な解決法、と言えるかもしれまえsん。たとえば腕時計が止った時には、この「原因 → 結果」の因果律が有効です。まず大方の原因は電池が切れたためであり、電池の交換で動き始めるはずです。その他の原因であれば修理が必要ですが、いずれにしても時計店に持ち込めば故障の原因と解決策は提示されるでしょう。
因果律が有効なのは、腕時計というシステムが湿気やゴミなどの外部からの影響を受けないように、閉じられているからです。ところが個人、あるいは家族、学校というシステムは、閉じられていません。人の縁はどこまでもつながっていますし、誰かの行動は何かの原因でもあるし結果でもあり、一つの原因から多くの結果が生まれるしで、因果律で理解しようとしてもわけが分からないのです。そして人の感情や行動は、機械のように具合の悪い部分を取り替えるわけにもいかないのです。
じゃあどうしたら良いんだ、と言う話はまた後にすることとして。学校を休んでいる子どもに、大人の方からその理由を聞き出したり、問い詰めたり、あるいは責めたりしてもあまり良いことはないようです。
当の本人は、学校を休む理由をはっきりあげることは、まずありません。でも「学校を休むからには、何か理由があるんでしょ、言ってごらん」と詰め寄られて、たとえば「部活が嫌だ」などと言うことはあります。大人の感覚では「部活が嫌なんだったら、別の部活にすれば良いことでしょ」と言う話になるのですが、それではらちがあかないことが多いのです。
私たちは何か困ったことが起こると、その原因を取り除いて解決をしようとします。「科学的」な解決法、と言えるかもしれまえsん。たとえば腕時計が止った時には、この「原因 → 結果」の因果律が有効です。まず大方の原因は電池が切れたためであり、電池の交換で動き始めるはずです。その他の原因であれば修理が必要ですが、いずれにしても時計店に持ち込めば故障の原因と解決策は提示されるでしょう。
因果律が有効なのは、腕時計というシステムが湿気やゴミなどの外部からの影響を受けないように、閉じられているからです。ところが個人、あるいは家族、学校というシステムは、閉じられていません。人の縁はどこまでもつながっていますし、誰かの行動は何かの原因でもあるし結果でもあり、一つの原因から多くの結果が生まれるしで、因果律で理解しようとしてもわけが分からないのです。そして人の感情や行動は、機械のように具合の悪い部分を取り替えるわけにもいかないのです。
じゃあどうしたら良いんだ、と言う話はまた後にすることとして。学校を休んでいる子どもに、大人の方からその理由を聞き出したり、問い詰めたり、あるいは責めたりしてもあまり良いことはないようです。
2009年07月08日
不登校とは
いまはどこの学校に行っても、「不登校」と呼ばれる子どもが何人かいます。不登校とは読んで字のごとく、学校に行かないことですが、その昔は「登校拒否」と呼ばれていました。さらにその前は、「学校恐怖症」です。
時系列に順を追って、考えてみましょう。学校恐怖症は、「対人恐怖症」や「広場恐怖症」などと同じ言葉の使い方で、つまりは神経症と言う病気としてとらえています。貧困でも身体の病気でもなく、学校に行ける状態であるのに行かないのは、「学校が怖い」病気があるのに違いない、と言うことです。病気ですから、対処としては治療と言うことになります。薬物療法や心理療法はもとより、極端な例になると精神病院に入院させられることもありました。
「登校拒否」は、学校に行くことを自分から拒絶する、主体的な行動としてとらえています。また学校恐怖症は病気、つまり個人内の現象であるのに対して、登校拒否は個人と学校との関係に由来する社会的な現象です。受験競争やいじめなど、色々な問題がある学校には、行きたくない子や行けない子がいても当然ではないか、と言う見方も出てきます。対処としては学校を変えようとか、学校に行かない生き方を支援しようと言う動きが出てきました。
さて「不登校」です。これは「登校しない」を指しているだけで、それ以上の意味は含まれていません。登校しないのは病気によるのか、そうでないのか。登校したいのにできないのか、登校したくないのか。「学校恐怖症」や「登校拒否」に含まれていた意味はなくなっています。学校に来ない子には色々なタイプがあって一律に理解することが難しいこと、「学校恐怖症」や「登校拒否」での対処では解決できなかったことが想像されます。
文部科学省の公式的な定義では、「何らかの心理的、情緒的、身体的あるいは社会的要因・背景により、登校しない、あるいはしたくともできない状況にあるため、年間30日以上欠席した者のうち、病気や経済的な理由による者を除いたもの」を、「不登校児童生徒」と呼んでいます。
時系列に順を追って、考えてみましょう。学校恐怖症は、「対人恐怖症」や「広場恐怖症」などと同じ言葉の使い方で、つまりは神経症と言う病気としてとらえています。貧困でも身体の病気でもなく、学校に行ける状態であるのに行かないのは、「学校が怖い」病気があるのに違いない、と言うことです。病気ですから、対処としては治療と言うことになります。薬物療法や心理療法はもとより、極端な例になると精神病院に入院させられることもありました。
「登校拒否」は、学校に行くことを自分から拒絶する、主体的な行動としてとらえています。また学校恐怖症は病気、つまり個人内の現象であるのに対して、登校拒否は個人と学校との関係に由来する社会的な現象です。受験競争やいじめなど、色々な問題がある学校には、行きたくない子や行けない子がいても当然ではないか、と言う見方も出てきます。対処としては学校を変えようとか、学校に行かない生き方を支援しようと言う動きが出てきました。
さて「不登校」です。これは「登校しない」を指しているだけで、それ以上の意味は含まれていません。登校しないのは病気によるのか、そうでないのか。登校したいのにできないのか、登校したくないのか。「学校恐怖症」や「登校拒否」に含まれていた意味はなくなっています。学校に来ない子には色々なタイプがあって一律に理解することが難しいこと、「学校恐怖症」や「登校拒否」での対処では解決できなかったことが想像されます。
文部科学省の公式的な定義では、「何らかの心理的、情緒的、身体的あるいは社会的要因・背景により、登校しない、あるいはしたくともできない状況にあるため、年間30日以上欠席した者のうち、病気や経済的な理由による者を除いたもの」を、「不登校児童生徒」と呼んでいます。