2024年03月20日

サブコンンシャス・リー

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先日に散歩をしていたら、よそのお宅の庭で福寿草が咲いていました。春一番に咲く花とされていますが、岩手では3月の半ばにならないと咲かないようです。今年は暖冬で雪が極端に少なかったのですが、今日は起きてみたらまた雪がちらついています。雪景色も風情があって良いのですが、散歩に出ようと言う気が失せてしまいます。というか、雪にかこつけてサボッているのですが……。

今日は春分の日で祝日なので、ふだんできない書類の整理をすることにしました。いやその前にあそこに出す書類を作るとか、ちょっと気になっていたことをネットで調べようとか、いまこうしてブログを書いていたりして、あれやこれやでもう午後の4時になろうとしています。相談室ではしまい込んでいた、リー・コニッツ(1927〜2020)の「サブコンシャス・リー」が流れています。コニッツはジャズのアルトサックス奏者ですが、一般受けはしないけれども創造的な演奏を生涯にわたって貫いた人で、コロナによる肺炎で亡くなりました。玄人受けはするけれども……というやつで、私も若いうちはこの<クール>な演奏には、あんまり興味がありませんでした。

表題曲の「サブコンシャス・リー」は、「無意識に」の「subconciously」とファーストネームの「Lee」をつなげた言葉遊びで、何ともしゃれています。スタンダードナンバーの「恋とは何でしょう」のコード進行に、無機質な旋律を乗っけたところが「無意識」っぽい味をだしています。

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1949年と1950年の録音は、自分が生まれる前のことです。当時のコニッツは大学を出たばかりの年齢ですが、いまもって鑑賞に耐える演奏をしています。のっぺりとした中に、スリルがあるのは面白いと思うのです。20代、30代のころには「古めかしくて退屈」だったけど、今日はなんと瑞々しい表現だろうと感じました。雪で閉じこもったおかげで、ちょっと得した気分です。
posted by nori at 16:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 岩手の絵日記

2024年02月25日

カウンセリングの料金

仙台に住んでいる娘が、「お父さん、値上げしないの?」と妻に聞いたそうです。ガソリンや食品など、暮らしに必要なものが値上がりしているし、預金は目減りしていくしで、私たちの家計や老後を心配してくれているんでしょうか。それとも、仙台では給料が上がっているのかな? それは聞いてみないと分からないことだけど、カウンセリングの料金というのは、なかなかに奥深い話題なのです。その気になれば、本の一冊くらい書けるかもしれません。

「あゆみカウンセリングルーム」を立ち上げた頃は、おいでになる方の収入によって料金を決めていました。同じ5千円、1万円であっても、年収によって意味合いが異なってきます。実際にアメリカではレーティング・スケールというものがあって、無収入の人はタダ同然でカウンセリングを受けることができたりします。お金の意味合いだけでなく、収入の再分配というか、満たされた者が持たざる者を助けるということなのかもしれません。でも日本では当たり前でないことを実践しようとすると、それがひとつのハードルになるし、私の方も足元を見るような気分になったりもして、一年くらいで止めてしまいました。以後は一回6千円をいただくことにして、値上げはしていません。

私の場合は、初めから安めの料金でやっていくことを考えていました。都会だったら1万円が相場かもしれないけど、ここは最低賃金が全国でも最低ランクの岩手県です。毎週通うとなると、きつい人が多いだろうと考えました。街中でオフィスを借りると家賃を払うのに大変だけど、自宅に造ってしまえば固定費は圧縮できます。スクールカウンセラーや企業のコンサルタントなど、アウトリーチの仕事をかけもちすれば生活を維持できます。「安くする」ためにわざわざ二足のわらじを履くのはオカシイと思う人もいるかもしれませんが、社会的な活動をすることはカウンセリングルームを閉鎖的な空間にしないためにも意味があると思っています。

考えてみれば、カウンセリングや心理療法ほどぜいたくな行為はなかなかありません。訓練を積んだ専門家としてつきっきりで関わるのですから、1回2万円、3万円もらっても良いのかもしれません。1回3万円で1年通ったとして150万円、それでも生き方を変えて心安らかになれるとしたら、ぼったくりとも言えないでしょう。学校に通っても、病院にかかっても、信仰をしても、他のどこに行っても得られない効果なのですから。それに仕事がうまくいくようになれば、そんな金額はすぐに回収できてしまいます。実際にいまアメリカでサイコロジストの面接を受ければ、2〜3万円くらいかかると思います。

ただ私としてはカウンセリングが「人の弱みの上に成り立つ営み」であることを知っていながら、専門性に応じた料金を請求するのもどうかな?と思います。専門性と言えば聞こえは良いけれど、人さまの心のうちに分け入るのはおせっかいとか野次馬根性とも言えるわけで、要するに自分の好きなことをさせてもらっているというこです。

それでは料金は安ければ安いほど、良いのでしょうか? 公的な機関で無料で行うとか、健康保険でカバーして3割負担だとか、うんと安くすれば誰でも気軽に受けられるかもしれません。でも私は「安い」は「易い」だと考えています。イギリスのセラピストの間では「健康保険でやる心理療法は効果が低い」と、言い伝えられているそうです。人とは現金なもので、身銭を切らないと日常から切り離すことが難しくなります。心理療法ではセッションは日常と異なる特別な時間ですし、心理療法を受けている期間の暮らしもまた特別なものになります。そうならなければ、人は変わっていきません。

たとえば私が中高生の頃はレコードはとても高くて、一年に2枚か3枚買えるレコードを、幾度となく繰り返し聴いたものでした。一家に一台の「ステレオ」で、親には「ギャーギャーうるさいだけの音楽」と言われながらも、レコードプレイヤーに盤を置いて針を落としたものです。洋楽だとジャケットや歌詞カート、解説をじっくり眺めながら、特別な時間を過ごすことができました。だから音楽だけでなく、うっとりした気分やミュージシャンへの憧れまで脳内再生できます。いまやスマホやパソコンがあれば、ポチッとするだけで家族の手前とか考えずに、しかもタダで、どんな曲でも聴ける時代になりました。身近になったことは確かだけど、そこに感動はあるのかなと思ってしまいます。「ああ、こんなもんか」で終わってしまうかもしれません。元手がかかっていれば、初めは好きじゃなくても元を取るために?聴きこみます。それでも好きにならなければ、それはまたそれで意味があるのです。

他にも「安くする」ことのジレンマはあります。私も人の子なので、同業者を見渡して「1万円でもリーズナブルだよね」と思うところもあれば、「これで1万円を取るの?」と思うところもあります。「6千円」を「安いから大したことないんだよね」と思われたくない、そういう、まあつまらない見栄です。もう一つは、これから開業しようとする人を圧迫しやしないか、と思ってしまうことです。「あの人が6千円でやっているのなら、自分は……」と思う人もいるかもしれません。自意識過剰かもしれませんが、これから開業する人たちのジャマにならないようにしないと、とも思うのです。たとえば盛岡は自家焙煎珈琲のお店が驚くほどあって、スタバがつぶれるような街です。長いこと強気の値段で頑張ってきたお店があったので、若い人たちが後に続いて妥当な値段で珈琲を提供するようになりました。

カウンセリングルームの経営がうまくいくということは、沢山のクライエントから高い料金をいただいてもうかるということではありません。続けて通ってくれる人の割合が多い、目標を達成できる人が多い、そうした経営を長く続けられる、ということが「うまくいっている」のです。あれこれ書きましたが、いまのところすぐに値上げをしようとは考えておりません。

2024年01月30日

あいまいな日本語

集まりがあると、それぞれ自己紹介をすることがあります。「○○の○○です。……よろしくお願いします」という感じですが、みなさん必ず「よろしくお願いします」で終わるんですね。何をよろしくなのか、だれによろしくなのか、何か意図をもっているけど濁しているのか、何だかわかりません。かりにメンバーが15人いるとしたら、「よろしくお願いします」に4秒使ったとして、1分間ムダになるわけです。自分がリーダーのときに、その理由を説明して「よろしくお願いします禁止令」から始めたことがあったのですが、みなさん居心地が悪そうだったし、つい「よろしくお願いします」と言う人もいて、そんなことにツッコミを入れるのも大人気ない気がして、ああまたヘンなことを言ってしまったと思うわけです。

ニュースを見ていると、不祥事の記者会見を締めるときに、雁首揃えて「申し訳ございませんでした」と頭を下げるのが定番になっています。この人たちがしたことでもないんだろうし、なぜ謝るのか? 自分たちに落ち度があって、その責任を取ると言っている……のではないのですが。だれに何の責任があるのか、ないのか、あいまいにしたまま「申し訳ございません」で済ませようって魂胆なのか? 記者会見は報道機関に広報する場なので、謝罪するのは変じゃないかと思うのですが。記者もまた責任を問うような質問をする人がいて、あたかも「公開処刑」のような感じになります。そして、それで済ませてしまうということなんでしょうか。

もっと気になるのが、政治家や行政がすることに異議があると、「ていねいな説明が求められている」という言葉で締めることです。やることの是非が問われているのに、「説明が足りない」ことにすり替えられてしまっています。ていねいに説明さえすればオッケーということで、「良いこと」になるのです。こうなると「あいまい」を通り越して、忖度とでも言えば良いのでしょうか、明確な意図を感じます。

こんなことを気にするのは、私だけでしょうか。
posted by nori at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | よしなしごと

2023年12月18日

ゆるっと画

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「ゆるっと画 素朴な民画を楽しむ」の展示会が、奥州市の「えさし郷土文化館」で開かれています。「ゆるっと画」とは芸術的な絵画ではなく、信仰や地域行事などのためにか描かれた絵画、お土産品や護符、陶磁器の絵付けなどの量産画などで、美術館の展覧会などでは見ることができません。「美」を追求したわけでもなく、「術」を凝らしたわけでもなく、「念」そのものを絵にしたような素朴さが特徴です。たとえば狩野派の絵師は手本を徹底的に描写しましたが、神官や僧侶などが地域の人たちに頼まれて描いた絵は、想像したことをそのまま描いていたりします。

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たとえばこの絵では、刀鍛冶の神様(荒神さま?)と、鬼と刀鍛冶が力を合わせていたりします。描写がゆるいとかユーモラスというだけではなくて、神と人、生と死、人と動物の境界がゆるい。そういうところにも惹かれました。

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ユングが好きな人ならご存じと思いますが、これは「十牛図」の九番目で、悟りの境地に達したところです。悟りとは「自然」だけなのでで、人物は描かれないのですが、ちゃっかり自分を入れちゃっているのが微笑ましいですね。

昨日はそのトークイベントがあり、奥州市地域文化研究所の宮本升平さん、えさし郷土文化館の野坂晃平さんの対談を聴いてきました。お二人のオタクトークが炸裂して、これがまた凄かったです。博識ぶりもさることながら、その熱量にも圧倒される感じでした。
posted by nori at 09:19| Comment(0) | TrackBack(0) | よしなしごと

2023年11月05日

「カウンセラー」の「集客」

ずいぶん昔のことですが、床屋のおばちゃん(ゴメン)と「客が来ないとき」について話したことがあります。
二人で同意に達したのは、「客が来ないと具合が悪くなる」(笑)でした。ここのところ新規の人が途絶えている、また来そうだった人が来なくなる……。何か失礼なことをしたんじゃないか、どこかの口コミでヘンなことを書かれているんじゃないのか、他のところに客が流れているんじゃないのか……と、あれこれ考えてしまうことがゼロだと言い切れる開業カウンセラーはいないんじゃないかな、と思うのです。

YouTubeには「カウンセラーの集客」と題する動画を投稿している人たちがけっこういて、ついコワイモノミタサで見てしまいました。中には「集客コンサルタント」みたいな人もいて、「開業カウンセラーは集客が全てです。もう一度言います、集客が全てですっ!」と連呼して、「安定した売り上げ」を確保するノウハウを説いていました。中には指南を受けて「半年で500人」を集客したクライアントと対談していました。そんなに集客してどうすんだと笑ってしまいましたが、この種の動画はコンサルテーションやコーチングの販促用のようです。

カウンセリングで開業をすると、それこそ集客から始めなくてはなりません。それは現実です。私の時代は職業別電話帳だったりしたのですが、いまはインスタグラムとかでしょうか。やりたくもないしできもしないことに、振り回されてしまいます。だから「開業なんてだれがやりたいと思うのさ」という方が健全です。組織で働いていれば集客なんかしなくて良いし、安定した収入も得られるのですから。

沢山見たわけじゃないけど、この人たちの共通点はカウンセリングを健康器具やサプリメントなどの、物販と全く同じビジネスとして捉えていることです。「商品開発」をして、その「効果」を求める人たちがアクセスできるようにする。たとえば「うつでお悩みの方」向けの商品。自分がうつで何年間もひきこもりだったけど、この方法でいまはこんなに前向きになりました……的なストーリーが必要です。それを実証する「これまで〇〇人の人から喜びの声をいただきました」とか、「顧客満足度〇%」とかも必要かもしれません。「ホントにそれだけ良くなってるの?」と証明を求められても、プライバシーをたてにすれば実例を挙げなくて済みます。「やってみたけど、ダメだった」は、「効果は人によって異なります」で終わりです。

カウンセリングは、ときとして人の命に関わります。私はこれまで40年近くやってきて、本当に良かったと思うのは「人の役に立ってきた」ことではなくて、「亡くなった人がいない」ことです。次に良かったのは自分や家族が、刃傷沙汰などに巻き込まれなかったことです。その次に良かったのは、訴訟にならなかったことです。いままでそうだったからと言ってこれからないとも言えないので、安全第一で取り組みます。

人の命に関わる医業では、従事者の資格が厳然と定められてきたし、広告や宣伝にも規制がかかっています。「集客コンサルタント」の指南を真に受けて集客したカウンセラーは、倫理的には完全にアウトだし、法律的にもグレーゾーンです。国家資格の公認心理師をもっている人はアウトで、無資格の人は医師法違反や公序良俗違反にならなければお咎めなしのグレーゾーンでしょうか。さすがに臨床心理士でひっかかる人はいない(と思いたい)でしょうが、倫理規定違反になるでしょう。「集客コンサルタント」の方は、「集客」を教えただけなのでお咎めなしです。そう言えば沈没して大勢が亡くなった北海道の観光遊覧船のコンサルタントは、元凶だったはずなのに、どうなったのでしょうか。

カウンセリングは素敵なこと、素晴らしいことというイメージがあるのか、人の役に立ちたいと思う人が大勢いるのか、関心をもつ人がとても多いようです。それは私にとっても嬉しいことなのですが、そういう人たちを食い物にしているビジネスが、「だれでも資格がもらえます」的なビジネスですね。カルチャースクールやオンライン講座など、もうゴマンとあります。それを運営しているのはおそらく就職先がなかった人たちで、就職先がなかった人たちが就職先できない人たちを大量生産し、大量生産された人たちが「集客法」を指南するという、もう目も当てらない状況が生まれているように、私には思えます。

臨床心理士でも公認心理師でもない人のカウンセリングが事故や事件、訴訟になって社会問題化すれば、カウンセリングは唯一の国家資格の公認心理師の業務独占にされるかもしれません。そうなったら困るのは、臨床心理士や認定協会です。認定協会がYouTubeなどの動画サイトで、臨床心理がいかに訓練されて責任を負ってやっているのか、どのように仕事をしているのか、楽しんで見ることができるような動画をアップするべきだと思うのです。
posted by nori at 09:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 臨床心理士

2023年10月10日

今年は舞茸

ここのところ、休日の朝は盛岡市神子田(みこだ)の朝市にでかけていました。狙いはキノコです。コウタケ、松茸などの高級キノコだけでなく、まだ知らないキノコを手に入れることもあります。「これ、どうやって食べるですか?」とお店の人に聞く、そんな会話も楽しいものです。今年のキノコは、不作のようです。松茸はちょぼちょぼとしか見ないし、コウタケにはお目にかかりません。

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それで、今年は舞茸を買いました。「ブナ」に生えていたせいか、色は白っぽいですね。ほぼ1Kgあって、根元からしっかりした上物です。2300円を高いと思うか、安いと思うかは人それぞれでしょうが、私は「安い」と思いました。そのまま調理して食べてもスーパーで売っている舞茸とはまるで別物で、シャキシャキとした食感を楽しめます。もちろんキノコ好きとしては、スーパーで売っている舞茸も喜んで食べますが、天然ものは年に一度の贅沢ですね。

今年は干して、炊き込みご飯にすることにしました。一日は天日干しにできたのですが、その後は雨が続いたので室内で扇風機にあてました。家の中が良い香り(と思わない人もいると思うけど)で、充満しました。
posted by nori at 21:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 岩手の絵日記