2022年03月17日

3月16日 深夜の地震

昨夜も遅くなって、もう寝なくては……と思った頃に、地震がありました。たいしたことがなくて良かった……と安堵したらすぐに激しい揺れを感じて、携帯電話の警告音が響きました。家のが基礎から揺れているという感じで、本当に怖い。物がいくつか落ちていましたが、そんなことを気にしている余裕はありません。この調子でどんどん揺れがエスカレートしていって、そのうちに家ごと壊れて下敷きになるのではないか……そんな恐怖に襲われました。

東日本大震災のときは、鉄筋コンクリートの高校にいたので、揺れている間の恐怖感はそれほどでもありませんでした。長く続いたので、その不気味さはありましたが……。今回は木造家屋の自宅だったので、とても怖く感じました。

揺れが収まってからテレビをつけて、状況確認。家族の安否確認ができて、ほっと一安心。それでも眠くなりません。1時を過ぎてから、床に就きました。東日本のときのトラウマとかぶったこともあって、過覚醒状態になっていたのですね。夜遅くに眠りについたのに、今朝は早くから眼が覚めてしまいました。

今回の地震で被害に遭われた方々に、こころよりお見舞い申し上げます。自然災害が続いているだけではなく、コロナ禍、ウクライナでの戦争、そして地震、そして子どもへの虐待や殺人事件など、こころの安全が脅かされています。平和と安全こそが尊いものであることを、あらためて感じます。
posted by nori at 11:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 東日本大震災

2022年02月11日

「10代の家出」に思うこと

NHKの番組を見ていたら、10代の人たちの家出が増えていると報道されていました。ある日突然、子どもが家から居なくなってしまう。携帯に電話をしても、つながらない。小学生だと誘拐された可能性が高いので、警察はすぐに捜査をしてくれるそうですが、中高生で緊急性が低いと判断された場合は、すぐに捜査には至らないようです。困り果てた親たちが、私立探偵事務所に相談をしたり、調査を依頼するとのことでした。SNSの裏アカウントにしか行動の手がかりを残していない子が多くて、なかなか保護には至らないことがあるそうです。10代の子を利用するために、SNSにクモの巣を張りめぐらしている大人もいて、詐欺の受け子に使ったり性的な暴行に及ぶ例も跡を絶たないらしいです。

コロナ禍で経済的に行き詰ったり、将来に不安を抱えている親が増えていて、家の中でもギスギスした雰囲気になりやすいのだとか。子育てにお金がかかる世代の人たちや、住宅ローンなどの借金をを抱えて人たちにとっては、本当に大変なご時勢だと思います。必死に働いて節約もしているのに、夜じゅう電気をつけてゲームに熱中して学校に行かない子どもがいたら……イライラの矛先が子どもに向かうことは容易に想像がつきます。実際にそのような事例も紹介されていました。

そんなときの親は「自分だけがつらい思いをしている」と、被害的な感情にとらわれているのだと思います。そうなる前に、「わが家の経済状況」を正確に子どもに伝えてみるのはどうなのでしょうか。借金、資産、収入、支出……毎月いくらの収入があって、何にいくら使っているのか。「子どもに余計な心配をさせるのは良くない」ことなのでしょうか。あるだけのお金で、それでも楽しく暮らしていくにはどうしたら良いのか、親子で話をしていくのは良いことではないかと思います。

番組で支援者の方が、「地域で何気ない会話ができていれば、追い詰められる人も減るのではないだろうか。みんなで話をするようにしていこう」とおっしゃっていました。それはコロナ禍だけに留まらず、少子高齢化、リーマンショックや非正規雇用の拡大、東日本大震災など、日本社会への揺さぶりに対して有効な手立てだと考えます。高度成長期に日本人は「会社丸抱え」の人生設計しか持たず、「経済的に価値がなくて面倒くさいだけ」のコミュニティを切り捨てて来ました。宗教はもともと貧弱だったし、自然も破壊が進んでしまったし、日用品の美は100均化する。政治はどの候補者も、同じようなお題目を並べるだけです。経済の凋落で心を支えを失くして、さらに経済も悪くなる……という悪循環だったのかもしれません。コトはそんなに単純じゃないよ、と言われるかもしれませんが、どうなんでしょう。
posted by nori at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | メンタルヘルス

2022年01月09日

滑らない歩き方

私は新潟の豪雪地帯から岩手県に移住したので、冬の雪は岩手の人ほど苦には感じません。「花巻は北上に比べて少なくて良いですね」とか言われても、どうもピンと来ないんですね。2メートルも積もるようなところにいたので、5cmと15cmを比べるのは意味がないように感じてしまいます。むしろ冬で怖いのは、寒くて凍ることです。実家の方は雪は降るけど、零下になることはあまりないのです。水抜きをする習慣もないので、引っ越して来たばかりのころに、風呂釜を凍らせてしまって難儀でした。あちこちで凍るので、ガス屋さんもすぐには来てくれません。

凍った道を歩いて、うっかり滑って尻もちをつくと、強烈に痛いです。滑らない歩き方は、あるんだろうか。あるんですね、滑りにくい歩き方が。以前に臨床動作法の研修会に出たとき、大広間に折りたたんだ長机が出ていました。それを二段重ねにして、上に乗るのです。そこから降りるのが修行で、たとえば右足をつま先から畳についたとします。右足のかかとが畳についても、左足のかかとをそのまま長机の上に置いておく、これがお題です。「階段の降り方」なのですが、足首がかたい人は痛くて思わずかかとを浮かしてしまいます。

歩くのは右、左、右、左と、片足立ちの連続ですが、それを両足立ちの連続にすることで、階段でもよろけないようにする、というのが成瀬先生の発想だったようです。でも会得するのは実に大変なことで、ロボットのような足つきでホテルの階段を登ったり降りたりしたのが思い出に残っています。でもあのときのように、両足ついて歩けば、凍った道でも滑りにくいですね。難点は歩き方がどうしてもぎこちないこと、でしょうか。「あそこのお父さんは気の毒に、当たったのかしら」とか言われかねない。ちなみに「当たる」とはこちらの方言?で、脳梗塞のことです。英語ではアタックとかストロークとか言うんでしょうから、まさに「当たる」です。凍った日にゴミ捨てに行くときは、スパイクつきの長靴が最高でしょうね、やっぱり。
posted by nori at 21:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 臨床動作法

2021年12月15日

「登校刺激」の廃絶を

教師が子どもに登校を促すとか、学校に来るように誘ってみるのは、だいたいは良くない方向に作用します。でもときには登校するきっかけになることもあるので、全面的に排除しようということではありません。「登校刺激」という用語をなくそうという話です。だれが言いだした言葉なのか、どこで使われるようになったのか知らないのですが、「登校刺激」は学校の会議や資料にも登場します。文科省も使っているのかな? どうなんでしょう。

「登校刺激」にはそのときの子どもの状態も、子どもとの関係性も、どんな文脈でどうコミュニケーションするかも関係がありません。すべてそのひとことに塗りこめられてしまいます。たとえば初めて見るような先生が怖い顔で「学校には来るんだぞ!」と言うのも、いつもゲームやマンガの話をしていた先生が「学校なんて、行きたくなったら行けばいいさ」とニヤっとするのも、同じ「登校刺激」になります。前者は有害無益ですが、後者は無害かつ巧妙な促しです。

不登校には、まずもって本人や家族をサポートする、寄りそう、その姿勢が求められます。先生から学校においでと「指導」されるくらいで来れるなら、そもそも不登校にはなっていません。そしてその「指導」通りにならないと、「本人の意欲がない」「家族に押し出す力がない」で片づけてしまう。そういう先生も実際にいたりして、困ったものだと思うのです。どうしたらその先生をサポートできるのか、こちらの感情をコントロールすることも求められます。そして実はその「指導」というのが、その人の自己愛がからんでいるので根深い問題だし、頭kら否定してしまうと逆切れされるのが関の山になります。
posted by nori at 10:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校

2021年11月15日

脳はいかに治癒をもたらすか

doidge.jpg

著者のノーマン・ドイジは古典と哲学を専攻した後に、精神医学を学び、精神分析家になりました。作家、エッセイスト、詩人でもあるという、多才な人のようです。この本は前著「脳は奇跡を起こす」(絶版でけっこうなプレミアがついてしまっているので、未読です)の続編で、外傷の痛み、パーキンソン病、脳卒中後遺症、学習障害、自閉症など、脳の器質的、あるいは不可逆的な働きと考えられてきた現象が、歩いたり神経刺激の装置を使ったり、あるいは聴覚訓練によって、改善されることを記述しています。

当事者へのインタビューと、著者の明確な考察によって構成されており、その背後には膨大な文献の渉猟があります。精神分析家ならではの、ストーリーを導き出して言葉にする能力によっているものだと感じました。若い頃は神経心理学に惹かれたこともあったのですが、脳と言うハードウェアの不具合によって、行動がどう影響を受けるのかという説明に終始している印象をもってしまい、あまり興味を持てなくなっていました。それはでは固定的で、ダイナミックな心の動きとはつながっていないですから。

私は「心」とは、「身体内(脳を含む)の相互作用によって生じる、よりよく生きようとする現象」ではないかと考えています。心理療法は「よりよく生きようとする現象」を治療するのではなく、「よりよく生きようとする現象」に働きかけることで治療的な効果を生み出そうとすることです。脳の可塑性に関する研究は、「身体内(脳を含む)」の相互作用」に光を当てるもので、これからの医学や心理学に、あるいはすべての人の幸せにと言い換えても良いですが、大きな貢献をしていくだろうと思います。
posted by nori at 12:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 臨床心理学の本棚

2021年10月17日

秋の空

岩手はお盆を過ぎれば涼しくなり、10月の下旬ともなれば朝晩は暖房が欲しくなります。「また冬が来るのか……」と、ちょっと憂うつな気分になることもあるのですが、空を見上げれば透明感があって空気が凛と澄んでいます。「こんなにきれいな空気を吸っているんだから、長生きできそうだな……」なんて、憂うつも吹き飛ぶのです。

sora1.jpg


ときには雲が光って、ドラマチックに見えることもあります。スマホで簡単に撮れるのですから、「良い時代なったなあ」と思ったり、「これじゃあ、デジカメが売れなくなるわけだ」とカメラ業界の人々を気の毒に思ったり。それに「簡単」は、現像や引き伸ばしを待つ「感動」を奪ってしまいました。


sora2.jpg


空に雲だけの写真も撮ってみましたが、やはり地面や建物がベースにないと、私は落ち着きません。地に足が着かないと言うか。こんな人間なので、どうも飛行機は好きになれません。旅をするなら、鉄道が好きです。早くコロナがおさまりますように。
posted by nori at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 岩手の絵日記