明日で、東日本大震災から10年になります。
テレビのニュースを見ていたら、今後の復興について「心のケアに力を入れる」ことが閣議決定されたとありました。政府は被災地の人々の「心」がどのような状態にあるのか、それをどう見立てているのでしょうか。そして「心のケア」とは、何をするつもりなのでしょうか。そこは全く述べられていないので、推しはかることもできないのですが、少なからず違和感を覚えました。
「ケアをする」と言うことは、被災した人々が「ケアの対象になる」、つまり弱みを抱えている人としてみなすということです。そういうからには、どのような弱みを抱えているのかを、具体的に明示すべきでしょう。「心のケア」と言えば、何かしら配慮をしているような、恰好がつくような、そんな便利な言葉でお茶をにごしているとしか思えないのです。
そもそも、「心のケアをします」などと言われて、被災した人々が喜ぶとでも思っているのでしょうか。
被災地の復興支援が、不要だと言っているのではありません。コミュニティの再形成を支援する、子育てを支援する、産業の育成を支援する、そういったことは是非ともしていただきたいです。働く場所があって、安心して子育てできる地域には、若い人たちも増えていくでしょう。また人々が地域で気軽に会うことができるように、新型コロナウィルスワクチンを優先的に回すことはできないものでしょうか。自分たちで暮らしを楽しんでいけると思える、未来を切り開く力があると感じられる、それこそが癒しではないでしょうか。
2021年03月10日
2021年02月10日
女性蔑視、以前の問題
森喜朗氏の「女性蔑視」発言が、話題になっています。いわく、女性が多いと審議に時間がかかる。女性は競争意識が強いから、誰かが手を挙げると自分も言わなきゃと思う、などなど。反応は大きくて、国の内外から大ブーイングとなりました。それは当然のことでしょう。
でも、問題は女性差別だけでしょうか? 私はむしろ、議論のあり方というか、ものごとの進め方をはき違えていることの方が問題ではないかと思うのです。「理事会で審議の結果、こう決まりました」と言う以上は、その理事会で審議を尽くすべきだし、意見交換が白熱して審議に時間がかかることは良いことではないのでしょうか。
だいたいに公職の審議会や、理事会というものは、ゼロから議論することはないでしょう。トップの意向に沿った事業計画や対処案件が、事務局によって作られています。その資料を説明して、ご質問、ご意見のある方はどうぞとなります。「時間がかかる」ことを良しとしないのは、「オレのやり方にツベコベぬかすな」とか、「立場をわきまえてふるまえ」という、傲慢の表れでしかないと思います。
もうずいぶん昔の話になりますが、議員会館の中に入ったことがあります。セキュリティもあるからなのですが、国会議員とは庶民が想像つかないくらいに特別扱いをされている人たちだと感じました。秘書や係官や警備員や官僚からセンセイと畏まられて、さまざまな陳情を「センセイおお力で」と受け、地元に帰ればこれまた自治体の議員やら首長やらから奉られる。特別扱いされているうちに、「特別な人間なんだ」と感じるようになる人がいても、不思議ではありません。
私たち臨床心理士も、周りの人たちから「センセイ」と呼ばれ、頼りにされているうちに、何やら万能的な力をもっているように錯覚してしまう可能性があります。自分にできること、できないこと、して良いこと、しない方が良いこと、してはいけないこと、その仕分けをしてゆくことが大切かな、と思います。
でも、問題は女性差別だけでしょうか? 私はむしろ、議論のあり方というか、ものごとの進め方をはき違えていることの方が問題ではないかと思うのです。「理事会で審議の結果、こう決まりました」と言う以上は、その理事会で審議を尽くすべきだし、意見交換が白熱して審議に時間がかかることは良いことではないのでしょうか。
だいたいに公職の審議会や、理事会というものは、ゼロから議論することはないでしょう。トップの意向に沿った事業計画や対処案件が、事務局によって作られています。その資料を説明して、ご質問、ご意見のある方はどうぞとなります。「時間がかかる」ことを良しとしないのは、「オレのやり方にツベコベぬかすな」とか、「立場をわきまえてふるまえ」という、傲慢の表れでしかないと思います。
もうずいぶん昔の話になりますが、議員会館の中に入ったことがあります。セキュリティもあるからなのですが、国会議員とは庶民が想像つかないくらいに特別扱いをされている人たちだと感じました。秘書や係官や警備員や官僚からセンセイと畏まられて、さまざまな陳情を「センセイおお力で」と受け、地元に帰ればこれまた自治体の議員やら首長やらから奉られる。特別扱いされているうちに、「特別な人間なんだ」と感じるようになる人がいても、不思議ではありません。
私たち臨床心理士も、周りの人たちから「センセイ」と呼ばれ、頼りにされているうちに、何やら万能的な力をもっているように錯覚してしまう可能性があります。自分にできること、できないこと、して良いこと、しない方が良いこと、してはいけないこと、その仕分けをしてゆくことが大切かな、と思います。
2021年01月25日
さあ、クラシックを聴こう

10代の頃から音楽が好きで、周りの人たちの多くがフォークソングを愛好していたのに、ロック、とりわけプログレと呼ばれる分野の作品が好きでした。大学生になった頃にはパンクが流行り、とてもこれにはついて行けないと、フュージョンから入ってジャズを聴くようになりました。どっぷりとジャズに浸かること、40年です。その間、音楽を聴く道具としてオーディオにもこだわってきました。とは言え、ときおり買う雑誌はハイエンド製品で紙面が埋まった「Stereo Sound」や自作マニア向けの「無線と実験」ではなくて、音楽ファン向け?の「ステレオ」誌がせいぜいです。まあ、その「ステレオ」誌にも、価格のゼロがひとつふたつ違うんじゃないかと思うような代物が掲載されることがあって、オーディオ人口の減少と所得格差の拡大を感じざるを得ません。
ここ数年はジャズも聴くけれど、クラシック音楽も聴くようになっています。以前は譜面通りに演奏する音楽は退屈ではないかと思っていたのですが、トシを取ったのでしょうか。宗旨替えをしたわけでもなくて、楽しみの幅が広がった感じです。私の場合、いちばん最初にのめり込んだのはグレン・グールド(p)が弾くバッハの「ゴールドベルク協奏曲」でした。自由気まま?でのけぞるようなスピード感もあって、これはもうジャズではないかと思いました。
いまのコロナ禍での、私たちの心情に寄りそってくれるのが、バッハの音楽ではないかとも感じます。バッハが生きた時代は、疫病や死があちこちにありました。バッハ自身も最初の妻を亡くしているし、二人の妻の間にもうけた子どもたち20人(!)のうち、成人したのは9人でした。晩年はインチキ医者に乗せられて眼の手術をしたのですが、それがもとで亡くなっています。「この頃は葬式が少なくて、収入が減ってしまった」などと、こぼしてもいたようです。サバイバルしていたバッハから、勇気をもらいましょうか。
2020年12月23日
トランプ大統領に思うこと
アメリカの大統領選挙も投票人による投票が終わり、バイデンが正式に当選しました。
しかしこの期に至ってもトランプ大統領は「不正」を訴えて、負けを認めていないようです。「アメリカを偉大に」のキャッチフレーズとは裏腹に、世界からの「アメリカ合衆国」への信頼、尊敬、あるいは憧れのようなものを失墜させ続けている張本人ではないでしょうか。

私はトランプが選挙戦に登場したときから、実に胡散臭い人だと思っていました。精神医学の診断名で言えば「自己愛性人格障害」そのものであって、周囲の人々はすべて、彼の自己愛を満足させる道具でしかありません。共感性が欠落しているので、他人の苦しみには無関心で、およそ政りごとには不向きな人物です。自分が大統領になりたいとは思っていても、大統領になって何をしたいのか、そのビジョンはなかったでしょう。でも明るくて前向きなので、ある意味人を引きつけるキャラクターです。トランプに引きつけられた人々は、トランプに利用されます。自分を理想化してくれたり、自分の手足になってくれる人にはエサを撒くので、お互いに理想化している間はハネムーンが続くでしょう。でも相手が自分の思い通りにならなければ、「どうしようもない奴だ」と価値下げして切り捨てる。いままではそんな、予想通りの展開でした。でも本人が「不正」を確信しているとしたら、妄想を抱いているということであり、きわめて危険な事態です。妄想か否かの判断は、現実に不正があったかどうかは問題ではなくて、訂正不能な思考に陥っているかどうかです。
トランプが大統領に就任してから数か月後に、「ドナルド・トランプの危険な兆候」という本が出版されました。イェール大学の法科大学院でも教えている精神科医のバンディ・リーが呼びかけた会議が発端となり、27名の精神科医や臨床心理学者が執筆して、彼の病理を診断したそうです。公的な人物に対して、診察をせずに診断をくだすことはゴールドウォーターの判例からタブーとなっているアメリカで、あえて出版されました。でも共和党の議員たちにしてみたら、「そんなことは、分かっている」が本音ではないでしょうか。クレイジーではあってもトランプはレーガン以来の共和党のスターであり、彼でなければ政権を取れないことが分かっていたので、持ち上げながら恩恵に預かってきたのでしょう。
私たちが政治家の人柄に期待するものがあるとしたら、常識と良心を持ち合わせているかどうか、ではないかと思います。「常識」も「良心」もインターネットでぐちゃぐちゃになり、突出した個性がアピール力を持つようになった現代では、精神的な健康度を測る視点は必要だと考えます。「ソシオパスだってことが分かったら、トランプには投票しない」とインタビューに答えていたアメリカの若者がいたことに、ほっとした思いがしました。
しかしこの期に至ってもトランプ大統領は「不正」を訴えて、負けを認めていないようです。「アメリカを偉大に」のキャッチフレーズとは裏腹に、世界からの「アメリカ合衆国」への信頼、尊敬、あるいは憧れのようなものを失墜させ続けている張本人ではないでしょうか。

私はトランプが選挙戦に登場したときから、実に胡散臭い人だと思っていました。精神医学の診断名で言えば「自己愛性人格障害」そのものであって、周囲の人々はすべて、彼の自己愛を満足させる道具でしかありません。共感性が欠落しているので、他人の苦しみには無関心で、およそ政りごとには不向きな人物です。自分が大統領になりたいとは思っていても、大統領になって何をしたいのか、そのビジョンはなかったでしょう。でも明るくて前向きなので、ある意味人を引きつけるキャラクターです。トランプに引きつけられた人々は、トランプに利用されます。自分を理想化してくれたり、自分の手足になってくれる人にはエサを撒くので、お互いに理想化している間はハネムーンが続くでしょう。でも相手が自分の思い通りにならなければ、「どうしようもない奴だ」と価値下げして切り捨てる。いままではそんな、予想通りの展開でした。でも本人が「不正」を確信しているとしたら、妄想を抱いているということであり、きわめて危険な事態です。妄想か否かの判断は、現実に不正があったかどうかは問題ではなくて、訂正不能な思考に陥っているかどうかです。
トランプが大統領に就任してから数か月後に、「ドナルド・トランプの危険な兆候」という本が出版されました。イェール大学の法科大学院でも教えている精神科医のバンディ・リーが呼びかけた会議が発端となり、27名の精神科医や臨床心理学者が執筆して、彼の病理を診断したそうです。公的な人物に対して、診察をせずに診断をくだすことはゴールドウォーターの判例からタブーとなっているアメリカで、あえて出版されました。でも共和党の議員たちにしてみたら、「そんなことは、分かっている」が本音ではないでしょうか。クレイジーではあってもトランプはレーガン以来の共和党のスターであり、彼でなければ政権を取れないことが分かっていたので、持ち上げながら恩恵に預かってきたのでしょう。
私たちが政治家の人柄に期待するものがあるとしたら、常識と良心を持ち合わせているかどうか、ではないかと思います。「常識」も「良心」もインターネットでぐちゃぐちゃになり、突出した個性がアピール力を持つようになった現代では、精神的な健康度を測る視点は必要だと考えます。「ソシオパスだってことが分かったら、トランプには投票しない」とインタビューに答えていたアメリカの若者がいたことに、ほっとした思いがしました。
2020年11月05日
キース・ジャレットの脳卒中
大好きなピアニスト、キース・ジャレットが2018年に2回の脳卒中を起こして、左半身にまひが残っているそうです。いまは杖をついて歩いているけど、ここまでくるのに1年以上を要したとか。「左手の機能で回復で望めるのは、コップを握ることくらい」で、「自分がピアニストには感じられない」とインタビューで語ったそうです。
私がジャズを聴き始めた学生時代、ピアニストで言えばキース・ジャレットやチック・コリア、ハービー・ハンコックは若手の旗頭という感じでした。とくにピアノ一台を前にして、思いのままに即興で弾くコンサートは前人未踏の境地を切り開いていたと言えます。「うなり声がうるさい」と嫌うリスナーもいたし、オスカー・ピーターソンにはこき下ろされるし、自らはウィントン・マルサリスの演奏を批判したりで、色々と物議をかもす人ではありました。でも三人の中では、コマーシャリズムに流れないで純粋に音楽を追求していたのはキースでした。そのキースもいまや75歳で、脳梗塞に苦しんでいるとは、自分だって歳をとってるんだなあと感じざるを得ません。そして大酒飲みで有名だったハンコックよりも先にダウンしてしまうとは、人生分からないものです。
ちょっと気になっているのが、病気の発症から2年も経って公表していることです。もしかしたら、うつ状態になっていたのではないでしょうか。やっと自分の障害を受け容れることができるようになって、公表したのかもしれません。私としては、ピアニストであることから解放されて、作曲をしてくれないかなと思っています。キースはジャズはもちろん、バッハやヘンデル、ショスタコービチなどのクラシック作品でも素晴らしい演奏を残しています。オーケストラの曲も書いているのですが、キースだったらもっと圧倒的な作品を書けるように感じていました。音楽活動をする意欲はなかなか湧いてこないかもしれないし、仕事をしなくても十分に暮らしていけるのでしょうけど、音楽家に生まれついたような人なので、ひそかに期待しています。
キースのソロ・コンサートは一度だけ、新潟市で聴いたことがあります。本当に美しい時間で、終わってから立ち上がるまで時間がかかりました。そして何十枚かある、LPレコードとCD。今まで沢山の音楽体験をさせてもらいました。安らぎと生きがいのある余生であることを、願っています。
私がジャズを聴き始めた学生時代、ピアニストで言えばキース・ジャレットやチック・コリア、ハービー・ハンコックは若手の旗頭という感じでした。とくにピアノ一台を前にして、思いのままに即興で弾くコンサートは前人未踏の境地を切り開いていたと言えます。「うなり声がうるさい」と嫌うリスナーもいたし、オスカー・ピーターソンにはこき下ろされるし、自らはウィントン・マルサリスの演奏を批判したりで、色々と物議をかもす人ではありました。でも三人の中では、コマーシャリズムに流れないで純粋に音楽を追求していたのはキースでした。そのキースもいまや75歳で、脳梗塞に苦しんでいるとは、自分だって歳をとってるんだなあと感じざるを得ません。そして大酒飲みで有名だったハンコックよりも先にダウンしてしまうとは、人生分からないものです。
ちょっと気になっているのが、病気の発症から2年も経って公表していることです。もしかしたら、うつ状態になっていたのではないでしょうか。やっと自分の障害を受け容れることができるようになって、公表したのかもしれません。私としては、ピアニストであることから解放されて、作曲をしてくれないかなと思っています。キースはジャズはもちろん、バッハやヘンデル、ショスタコービチなどのクラシック作品でも素晴らしい演奏を残しています。オーケストラの曲も書いているのですが、キースだったらもっと圧倒的な作品を書けるように感じていました。音楽活動をする意欲はなかなか湧いてこないかもしれないし、仕事をしなくても十分に暮らしていけるのでしょうけど、音楽家に生まれついたような人なので、ひそかに期待しています。
キースのソロ・コンサートは一度だけ、新潟市で聴いたことがあります。本当に美しい時間で、終わってから立ち上がるまで時間がかかりました。そして何十枚かある、LPレコードとCD。今まで沢山の音楽体験をさせてもらいました。安らぎと生きがいのある余生であることを、願っています。
2020年10月12日
ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩(Ballad)
もう20年以上も前の話ですが、新潟から岩手に引っ越すときにジャズの仲間から言われました。「ベイシーには行くなよ。お前みたいなヤツが行くと、ケンカになるから」。「お前みたいなヤツ」とはどんなヤツのことを言うのか? それはさておいて。もちろん岩手に住んでから、ほどなくしてベイシーには行ってみました。でもマスターと話をするわけでもなく(話をするのが難しい大音響です)、黙ってレコードを聴いて、黙ってお金を払って帰るだけです。マスターも黙ってお金を受け取るだけで、何回行っても、その繰り返しでした。だから最近になって「ありがとうございました」などと言われると、「この人死ぬんじゃなかろうか」などと思ってしまうのです。
でも、マスターはこっちのことをジッと見ているような気がします。一枚ごとに、どんな反応を示すのか。そして「今度は、これでどうだ!」みたいに、盤を選んでいる。そしてお金を払うときに、「イイのを聴かせてもらいました」とか「良く鳴ってますね」という顔をしているかどうか。観光地みたいになってしまって、こんな無言の会話をしないまま帰る客には、たぶんマスターはがっかりしていると思います。ジャズ喫茶仲間には、「スマホで写真を撮るだけの客なんか、うんざりする」とこぼしていたようですから。
マスターは映画の中で、「ジャズというジャンルがあるんじゃなくて、ジャズの人がいるんだ」と言っていました。それはそうだとは思うのですが、でもジャズという音楽を愛する者どうしのつながりもあると思うのです。世間的な地位やその他の分け隔てなく、ジャズを前にしたらみんなひとしくバカになるというか、そんな、ある種のコミュニティと言ったら良いのでしょうか。

私はジャズもオーディオも珈琲も好きで、若い頃はご多聞にもれず、ジャズ喫茶のマスターに憧れていました。でも実際にやることを考えると、いくら好きな音楽でもずっと聴いてはいられないと思ってしまいます。オーディオ装置の調整に余念なく、そして飲み物を客に出しながら、レコードを一枚一枚、演奏する。開店から閉店までの間ずっと、大音量で。それを連日、何十年も。生半可なことではできません。私なんぞには到底できないことで、本当に凄いことだと思ってしまうのです。感動するのは、菅原正二(マスター)という存在に対してですね。
でも、マスターはこっちのことをジッと見ているような気がします。一枚ごとに、どんな反応を示すのか。そして「今度は、これでどうだ!」みたいに、盤を選んでいる。そしてお金を払うときに、「イイのを聴かせてもらいました」とか「良く鳴ってますね」という顔をしているかどうか。観光地みたいになってしまって、こんな無言の会話をしないまま帰る客には、たぶんマスターはがっかりしていると思います。ジャズ喫茶仲間には、「スマホで写真を撮るだけの客なんか、うんざりする」とこぼしていたようですから。
マスターは映画の中で、「ジャズというジャンルがあるんじゃなくて、ジャズの人がいるんだ」と言っていました。それはそうだとは思うのですが、でもジャズという音楽を愛する者どうしのつながりもあると思うのです。世間的な地位やその他の分け隔てなく、ジャズを前にしたらみんなひとしくバカになるというか、そんな、ある種のコミュニティと言ったら良いのでしょうか。

私はジャズもオーディオも珈琲も好きで、若い頃はご多聞にもれず、ジャズ喫茶のマスターに憧れていました。でも実際にやることを考えると、いくら好きな音楽でもずっと聴いてはいられないと思ってしまいます。オーディオ装置の調整に余念なく、そして飲み物を客に出しながら、レコードを一枚一枚、演奏する。開店から閉店までの間ずっと、大音量で。それを連日、何十年も。生半可なことではできません。私なんぞには到底できないことで、本当に凄いことだと思ってしまうのです。感動するのは、菅原正二(マスター)という存在に対してですね。