2022年01月09日

滑らない歩き方

私は新潟の豪雪地帯から岩手県に移住したので、冬の雪は岩手の人ほど苦には感じません。「花巻は北上に比べて少なくて良いですね」とか言われても、どうもピンと来ないんですね。2メートルも積もるようなところにいたので、5cmと15cmを比べるのは意味がないように感じてしまいます。むしろ冬で怖いのは、寒くて凍ることです。実家の方は雪は降るけど、零下になることはあまりないのです。水抜きをする習慣もないので、引っ越して来たばかりのころに、風呂釜を凍らせてしまって難儀でした。あちこちで凍るので、ガス屋さんもすぐには来てくれません。

凍った道を歩いて、うっかり滑って尻もちをつくと、強烈に痛いです。滑らない歩き方は、あるんだろうか。あるんですね、滑りにくい歩き方が。以前に臨床動作法の研修会に出たとき、大広間に折りたたんだ長机が出ていました。それを二段重ねにして、上に乗るのです。そこから降りるのが修行で、たとえば右足をつま先から畳についたとします。右足のかかとが畳についても、左足のかかとをそのまま長机の上に置いておく、これがお題です。「階段の降り方」なのですが、足首がかたい人は痛くて思わずかかとを浮かしてしまいます。

歩くのは右、左、右、左と、片足立ちの連続ですが、それを両足立ちの連続にすることで、階段でもよろけないようにする、というのが成瀬先生の発想だったようです。でも会得するのは実に大変なことで、ロボットのような足つきでホテルの階段を登ったり降りたりしたのが思い出に残っています。でもあのときのように、両足ついて歩けば、凍った道でも滑りにくいですね。難点は歩き方がどうしてもぎこちないこと、でしょうか。「あそこのお父さんは気の毒に、当たったのかしら」とか言われかねない。ちなみに「当たる」とはこちらの方言?で、脳梗塞のことです。英語ではアタックとかストロークとか言うんでしょうから、まさに「当たる」です。凍った日にゴミ捨てに行くときは、スパイクつきの長靴が最高でしょうね、やっぱり。
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2021年12月15日

「登校刺激」の廃絶を

教師が子どもに登校を促すとか、学校に来るように誘ってみるのは、だいたいは良くない方向に作用します。でもときには登校するきっかけになることもあるので、全面的に排除しようということではありません。「登校刺激」という用語をなくそうという話です。だれが言いだした言葉なのか、どこで使われるようになったのか知らないのですが、「登校刺激」は学校の会議や資料にも登場します。文科省も使っているのかな? どうなんでしょう。

「登校刺激」にはそのときの子どもの状態も、子どもとの関係性も、どんな文脈でどうコミュニケーションするかも関係がありません。すべてそのひとことに塗りこめられてしまいます。たとえば初めて見るような先生が怖い顔で「学校には来るんだぞ!」と言うのも、いつもゲームやマンガの話をしていた先生が「学校なんて、行きたくなったら行けばいいさ」とニヤっとするのも、同じ「登校刺激」になります。前者は有害無益ですが、後者は無害かつ巧妙な促しです。

不登校には、まずもって本人や家族をサポートする、寄りそう、その姿勢が求められます。先生から学校においでと「指導」されるくらいで来れるなら、そもそも不登校にはなっていません。そしてその「指導」通りにならないと、「本人の意欲がない」「家族に押し出す力がない」で片づけてしまう。そういう先生も実際にいたりして、困ったものだと思うのです。どうしたらその先生をサポートできるのか、こちらの感情をコントロールすることも求められます。そして実はその「指導」というのが、その人の自己愛がからんでいるので根深い問題だし、頭kら否定してしまうと逆切れされるのが関の山になります。
posted by nori at 10:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校

2021年11月15日

脳はいかに治癒をもたらすか

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著者のノーマン・ドイジは古典と哲学を専攻した後に、精神医学を学び、精神分析家になりました。作家、エッセイスト、詩人でもあるという、多才な人のようです。この本は前著「脳は奇跡を起こす」(絶版でけっこうなプレミアがついてしまっているので、未読です)の続編で、外傷の痛み、パーキンソン病、脳卒中後遺症、学習障害、自閉症など、脳の器質的、あるいは不可逆的な働きと考えられてきた現象が、歩いたり神経刺激の装置を使ったり、あるいは聴覚訓練によって、改善されることを記述しています。

当事者へのインタビューと、著者の明確な考察によって構成されており、その背後には膨大な文献の渉猟があります。精神分析家ならではの、ストーリーを導き出して言葉にする能力によっているものだと感じました。若い頃は神経心理学に惹かれたこともあったのですが、脳と言うハードウェアの不具合によって、行動がどう影響を受けるのかという説明に終始している印象をもってしまい、あまり興味を持てなくなっていました。それはでは固定的で、ダイナミックな心の動きとはつながっていないですから。

私は「心」とは、「身体内(脳を含む)の相互作用によって生じる、よりよく生きようとする現象」ではないかと考えています。心理療法は「よりよく生きようとする現象」を治療するのではなく、「よりよく生きようとする現象」に働きかけることで治療的な効果を生み出そうとすることです。脳の可塑性に関する研究は、「身体内(脳を含む)」の相互作用」に光を当てるもので、これからの医学や心理学に、あるいはすべての人の幸せにと言い換えても良いですが、大きな貢献をしていくだろうと思います。
posted by nori at 12:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 臨床心理学の本棚

2021年10月17日

秋の空

岩手はお盆を過ぎれば涼しくなり、10月の下旬ともなれば朝晩は暖房が欲しくなります。「また冬が来るのか……」と、ちょっと憂うつな気分になることもあるのですが、空を見上げれば透明感があって空気が凛と澄んでいます。「こんなにきれいな空気を吸っているんだから、長生きできそうだな……」なんて、憂うつも吹き飛ぶのです。

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ときには雲が光って、ドラマチックに見えることもあります。スマホで簡単に撮れるのですから、「良い時代なったなあ」と思ったり、「これじゃあ、デジカメが売れなくなるわけだ」とカメラ業界の人々を気の毒に思ったり。それに「簡単」は、現像や引き伸ばしを待つ「感動」を奪ってしまいました。


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空に雲だけの写真も撮ってみましたが、やはり地面や建物がベースにないと、私は落ち着きません。地に足が着かないと言うか。こんな人間なので、どうも飛行機は好きになれません。旅をするなら、鉄道が好きです。早くコロナがおさまりますように。
posted by nori at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 岩手の絵日記

2021年09月17日

「生徒会」に意味はあるのか?

中学校の廊下に、生徒会役員の選挙公報が掲示されていました。当たり前になって、だれも疑問に思わない?「生徒会」なのですが、あれに何の意味があるのか、私は疑問です。「立候補」する子は、たいがいは先生から勧められたりしています。教員から見て「ちょっと、あの子はね……」なんて子が思いがけず立候補すると、「ふさわしい子」が擁立されたりします。いまは元気のある子が少ないので、信任投票だったりします。

そもそも、「生徒会」には何の権限も予算もありません。要は先生方の下請けで、やらされることは決まっている。それも「できる子」が、水面下で選ばれてしまっている。そこはもう暗黙の了解で、選挙なるものが行われている。「民主主義の仕組みを体験させる」という大義名分はあるのかもしれませんが、そこが問題だと思うのです。政治家の二世、三世、あるいは秘書、目をかけられた役人……そういう人たちが立候補して、「あれもやります、これもやります」とみんな同じようなことを公約にして、投票者は「できる人に任せておけば安心」みたいな、そんな大人社会の選挙の予行演習になっているのではないか、とさえ感じます。

生徒総会もすっかり管理されていて、質問もあらかじめチェックされています。執行部がひとこと回答すれば、「分かりました、頑張ってください」でお終いで、その場の議論というものがない。いまの国会や地方自治体の議会にしても、用意された原稿や役人の答弁だらけで議論がないのと同じです。政治への無関心、盲従、反発、無力感、そういったものは育っていくでしょうが、自らコミットしようとする姿勢は「生徒会」からは生まれて行かないと思います。

私が中学1年生のとき、生徒会長はかなり型破りな人物でした。「靴を履かなくてはいけないという校則はない」から、裸足で校内を歩き回る。運動は抜群にできるくせに、文化部に日の目が当たらないのは不公平だからと、美術部か何かに入って「文化大革命」を訴える(いまでは悪名高い毛沢東の暴虐な権力闘争ですが、何しろ中1ですから何だソレは……という感じでした)。「彼を生徒会長にしたら、どうなるんだろう?」と考えるチャンスは、上級生にはあったはずです。まあ彼も傑作だったけど、生徒会長にして泳がせていた先生方も偉かったと思います。

選挙で役員を選んで生徒会を運営させるなら、彼らに権限や予算を与えるべきでしょう。生徒たち自らが学校を良くしていくために関わる仕組みを作りたいのなら、「この指とまれ」のボランティア方式にすれば良いと思います。子どもたちが自分で居場所を見つけて、活動に誇りを持てるようになれば、成長の糧にもなっていくのではないでしょうか。

2021年07月24日

宮古の海

たまには海でも見に行こうか、とドライブに出かけました。宮古市の海岸では浄土ヶ浜が有名だけど、今回は本州最東端の灯台があることで知られる、魹ヶ崎(とどがさき)を目指しました。魹ヶ崎がある重茂(おもえ)半島は三陸海岸で最大の半島ですが、「合成洗剤を絶対に使わない運動」の看板が立っています。森を育て、清浄な水を流してプランクトンを育てて、沿岸漁業を守ろうという壮大かつ先進的な取り組みが続けられているところです。

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姉吉(あねよし)漁港から、よく整備された遊歩道を1時間近く歩けば魹ヶ崎、なのですが……。今回はこの澄んだ海と波をながめながら、珈琲を飲んで帰ることにしました。アウトドア用のバーナーでお湯を沸かして、ミルで挽いて淹れました。ちなみに姉吉漁港には、きれいなデイキャンプ場もあります。

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魹ヶ崎まで歩くのを止めたのは、「ウニ」です。途中の産直で、牛乳瓶くらいのボトルに入ったのを、買ってしまったのです。きれいな海水で育ったウニは、さぞ美味しいだろうと。とにかくこれを家に持って帰って食べなければ……と予定変更したのでした。ともかく、のんびりぼうっと過ごすのは、ぜいたくな時間でした。
posted by nori at 19:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 岩手の絵日記